「がんばろう神戸」から20年…DJ KIMURAさんが語る、日本初のスタジアムDJ誕生秘話
1991年から2000年までオリックス・ブルーウェーブの本拠地、グリーンスタジアム神戸(球団名・球場名は当時)でスタジアムDJを務めた”DJ KIMURA”こと木村芳生氏。当時、スタジアムはもちろんテレビなどを通して、「イチロー・スズキィー!」のコールを耳にした人も多いのではないでしょうか。 今年の4月18日(土)、19日(日)ほっともっとフィールド神戸で行われるオリックス・バファローズvs埼玉西武ライオンズ「がんばろうKOBE~あの時を忘れない~」復刻試合でも、スタジアムDJとして登場します。復刻試合を控え、ベースボールチャンネルではロングインタビューを敢行。前編は「スタジアムDJ」という肩書きが生まれた秘話、当時の演出のこだわりについて伺いました。
2015/04/17
提供:木村芳生氏
ファンへの感謝を込め、復刻試合に登場
――今年の復刻試合でスタジアムDJとして登場するとのことですが、他にも関わられるイベントなどはありますか?
18日には田口(壮)くんとのトークショーがあるので、そちらにも出演します。今回は神戸市とオリックス・バファローズとの共同イベントのような形ですので「震災後の復興と共に、優勝が大きな力になった」というコンセプトの内容でお話を頂きました。
自分自身がこの20年を振り返っていちばん伝えたいことは、震災後すぐの交通や生活の不便の中、一生懸命に球場に足を運んでくれて応援してくれたファンや、とてつもない尽力を注ぎ復興に関わり、今の神戸を再生してくれた様々な方々への感謝ではないかと思いました。チーム名も変わり、当時の選手もチームに現役選手としてはおらず、メインの本拠地も京セラドーム大阪に移転しながらも、その中で変わっていないのは今もなお応援し続けてくれるファンの方達です。
球団にも「20年間のファンへの感謝」をイベントに入れてもらうことをお願いしました。私もその皆さんのために”DJ KIMURA”を精一杯やらせて頂きたく思っています。
――日本初のスタジアムDJである木村氏ですが、まずはスタジアムDJとなったきっかけはどのようなものだったのでしょうか?
元々はディスコでDJをしていました。そんな中、海外のトップスキーヤー達が日本にやってくるというイベントがあって、それをDJ風に盛り上げてくれないかと依頼されてDJをしたのがスポーツと関わったきっかけです。その時お会いしたスポーツ紙の記者さんが「木村さん、この記事ご覧になりました?」と。その記事こそが「オリックスがDJを募集している」記事だったんですね。
最初は「DJ」というので、単発のイベントでDJとしてレコードを回すのかなというイメージで応募しました。それが実は後で知ったのですがイベントではなく「全試合、男性アナウンスでDJっぽくしてください」と。熱心に声をかけていただいて何度にもわたる選考も通過して受かったのですが、「外国からも人材が来ている中で選んでいて、オリックスのイメージがあなたに合いましたよ」と。僕の場合は勢いとか音楽にのせての喋りで、他のラジオの方だったりアナウンススクールでちゃんと勉強されている方だったりとかもいらしたので、僕だけちょっと場違いかな…と思ったり、ディスコとの契約もあって一旦「相談させてください」と待って頂いたりもしたのですが、最終的に1990年7月に翌シーズンからの登場が決まりました。
翌年までは野球の勉強を自由にしていいですよということで、発表された1990年11月くらいまではずっと周囲にも公言せずに勉強してきていました。野球が大好きだったのでとても楽しかったですね。元々、夜ディスコイベントに出ていてもプロ野球は録画して帰ってきてから見ていたくらいですから。
――喋りのスタイルについては、やはりディスコ調でいこうと当初からお考えだったのでしょうか。
球団に「どうしましょうか?」と聞いたら、「好きにやっていい」と言われまして。ただ現場はどう思われるのかな…と思って当時の上田(利治)監督の部屋にお邪魔させて頂いて、「球団からは自分のスタイルでやっていいということなんですけれども、現場の皆様に失礼に当たらないか」と聞いたんです。すると上田さんは「自分の思った通りにやったらいいよ」「思いっきり変えてくれたほうが良い」と、おっしゃって頂いたので「ならば」と。
――選手の方に認知され始めたタイミングは。
発表されてすぐに、球団によるファンへの感謝の集いにも呼ばれました。そこにはテレビで見てきたような選手がズラーっといて、どうしようかなと端っこにいたら同級生の藤井(康雄)が声をかけてくれました。藤井のほうから「こっちおいで!」「来年からDJするらしいよ」って他の選手達に紹介してくれたんです。
藤井も学生時代からたまにディスコに遊びに行っていて、「そういう世界の話聞きたいなー」「遊ぼう、遊ぼう」とその後も声をかけてくれて、それはうれしかったですね(木村氏は、その後2002年の藤井康雄選手の引退試合でも花束贈呈のプレゼンターを務めた)。
――ファンの方からは。
当時は阪急ブレーブス時代からのオールドファンの方も多かったんです。最初は「なんか英語混じってるし、音楽どんどん掛かるし、ビックリするわ」というお電話もあったそうですが、当時一切僕の耳には入らなくて、統括されている方が「俺が全部責任持つし、木村くんのDJは好きだから、そのままやってもらっていいです。何してもいいです」と、そのまま好きにやらせてくれました。
すると、6月頃にあるとき「せっかくDJ KIMURAが喋るって聞いてきたのに、今日は喋らないんですか」という声が届くようになったそうです。週に一度、勉強するためと、阪急時代のファンもいるからということで、前年までのウグイス嬢の方が登場する日があったんです。
そういう要望が挙がったことで8月頃からは「木村に全試合喋らせよう」と、全ての試合を任せて頂けることになりました。