「がんばろう神戸」から20年…DJ KIMURAさんが語る、1995年のブルーウェーブ
1991年から2000年までオリックス・ブルーウェーブの本拠地、グリーンスタジアム神戸(球団名・球場名は当時)でスタジアムDJを務めた”DJ KIMURA”こと木村芳生氏。当時、スタジアムはもちろんテレビなどを通して、「イチロー・スズキィー!」のコールを耳にした人も多いのではないでしょうか。 今年の4月18日(土)、19日(日)ほっともっとフィールド神戸で行われるオリックス・バファローズvs埼玉西武ライオンズ「がんばろうKOBE~あの時を忘れない~」復刻試合でも、スタジアムDJとして登場します。復刻試合を控え、ベースボールチャンネルではロングインタビューを敢行。後編は1995年、ブルーウェーブがパリーグ優勝を果たした年を中心に「がんばろう神戸」の頃、そして現在の映像制作業務へのこだわりについて伺いました。
2015/04/18
提供:木村芳生氏
優勝が近づくにつれ「人がスタジアムを作っている」ような状況に
――阪神大震災の当日のことは覚えていらっしゃいますか。
前日に朝から夕方まで静岡でのイベントがあって、家に帰ってきたのが深夜でした。そのまま起きていて寝ようかなという時に、とんでもない揺れが来たんですよ。
――その後球団内では、どのようなお話がありましたか。
オープン戦はもちろん神戸で予定されているわけで、これを中止するわけにはいかないと。仰木(彬)監督も「神戸が踏ん張らなければいけない時だから、自分たちも踏ん張って良い試合をして、優勝して神戸の力になることが大事だ」とおっしゃっていました。そのオープン戦の間も余震が凄かったんです。試合中に揺れるとお客さんもざわめくので、そういった状況を見ながら進行するという感じでしたね。この頃は今年の演出をどうするかというより、余震の対応に対しての話し合いを沢山行っていました。
個人的にも家から球場までは元々2時間くらいかかっていたのですが、不通になっている区間も多かったのでかなり迂回して球場に向かっていました。行きは始発に乗って、着くのが昼12時前くらい、帰りも夜中になって寝るのが4時間くらい、という状況が続いていました。その後中心部の電車が復旧しても、街中の粉塵が凄くてマスクをして街を歩くんです。徐々に復旧してきても、まだそのままの所もあったり…そういう光景を見るのは辛かったですね。
――そうして開幕を迎えます。
実はチームも4月はあまり勝てなかったんですよ。開幕に合わせて地下鉄もなんとか動き出してという状況で、気持ちは本当に「がんばろう神戸」なのですが、今年はやらなきゃいけないとガチガチだったかもしれません。そんな中エース級の二人、星野(伸之)が1安打で負け投手になったり、野田(浩司)が19奪三振しても勝てなかったり、イチローも3割を切ったり。ただ、5月からはチームも波に乗り始めましたね。
――球場の雰囲気も変わっていったと思うのですが、放送ブースから見ていていかがでしたか。
2位、1位と順位が上がっていくにつれ、スタジアムの膨らみ方がすごかったです。ナイターだと15時くらいに球場に行くんですが、そこですでに駅のほうまでお客さんが並んでいる状態でした。球場の中も人で膨らんでいくのがわかるんです。
例えば外野席だと手すりにつかまって観る方がいたりするじゃないですが。その列が1列ではなくさらに2列、3列…と盛り上がっているんですよ。席もぎゅうぎゅうで、当時は「お手荷物をヒザの上に置いてお詰め下さい」と言い続けた覚えがありますね。そんな「人がスタジアムを作っている」ような状況で、歓声で地響きがうぉーっと。そういう体験ができたのはうれしかったですね。
――ファンの方から声をかけられたりすることもありましたか。
スタジアムや駅では多かったですね。試合が始まる前、雰囲気を掴む為に観客席を一周回っていたんですよ。その時に「今日も勝とうね」と声をかけて頂く方もいたり、「今日も来てるな」というファンの方を見つけたり。
――当初はガチガチだったというチームの雰囲気もほぐれていったのでしょうか?
それがまた優勝が近づいて来ると、テレビでも毎日結果が注目されたり、取材もすごいじゃないですか。「これは優勝しなきゃいけないぞ」という緊迫した雰囲気になってくるんですよね。当時、阪急時代に優勝の経験をしたことのある選手が佐藤義則さんくらいしかいないという時に、そのヨシさんが藤井寺の近鉄戦でノーヒットノーランを達成して。その気迫を見て選手も僕たちも「やるしかないんだ」と感じたと思うんです。
実は球団スタッフも浮き足立っていたのか、一番大変だったのが西武球場で優勝をしたあとのビールかけでした。僕も優勝のシーンを見たくて現地に行っていたのですが、ビールかけのビールは人にかけるから、冷やしちゃいけないんですよね! それがキンキンに冷やされていて、みんなかけ出したら逃げるんです(笑)。
――木村氏がスタジアムDJになってから初の優勝に向けてということで、いわば未知の領域ですよね。
そうですね、選手がリラックスできるように、「優勝」ということはいっさいアナウンスしなかったです。あくまで「がんばろう神戸」だけにとどめていました。
ただ、地元神戸で優勝したらこの曲をかけようというのは考えていましたね。結局1996年に1年持ち越しになりましたが。当時は日本シリーズを控えて(対戦相手の)ヤクルトの選手を一人ひとり読む練習をしたりもしていましたね。