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大打者との数奇な巡り合わせ、名一塁手・山本功児逝去。「いぶし銀」として存在感を発揮したプロ野球人生

巨人、ロッテでプレーし、現役引退後はロッテの監督、巨人のヘッドコーチなどを務めた山本功児氏が、23日北九州市内の自宅で肝臓がんのため死去した。64歳だった。

2016/04/24

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ロッテ移籍後は中心選手として活躍

 二つ目は「やまもとこうじの影武者」。
 山本功児の5歳上の広島東洋カープの山本浩二は、78年には44本塁打で本塁打王となり、全盛期を迎える。セリーグの最強打者の座は王貞治から山本浩二に移った。赤ヘルの4番打者山本浩二は、広島では絶対的な存在になった。

 広島市民球場での巨人戦、王貞治がベンチに下がって山本功児がミットを持って出てくると「こらー、ニセモノ!」「ニセこうじ!」というヤジが飛んだ。
 学年は重なっていないものの、山本浩二は、山本功児の法政大学の先輩にもあたる。皮肉なめぐりあわせだったが、これも山本功児の宿命だった。

 王貞治が引退した1981年には、いよいよ山本功児の時代が来るかと思われた。しかしドラフト同期の中畑清が台頭し、一塁で併用される。翌年には中畑はレギュラーの座を確保し、ダイヤモンドグラブ賞を獲得。山本は半レギュラーに逆戻りする。

 1984年、トレードでロッテに移籍。この年、はじめて規定打席に達し10本塁打、66打点打率.301(9位)をマーク、ダイヤモンドグラブ賞を獲得した。
 翌年も10本塁打、67打点、打率.293(14位)でダイヤモンドグラブ賞を連続で獲得するが翌87年、三冠王、落合博満が一塁にコンバートされたために山本はレギュラーの座を再び奪われる。落合はシーズン後半に三塁に戻ったが、山本は斉藤巧と併用されるにとどまった。
 88年には愛甲猛が一塁を守るようになり、この年限りで引退した。

 一塁守備の名手でもあり、アベレージの残せる強打者として、レギュラーの務まる選手でありながら、歴史に残る強打者の陰に隠れて、十分に数字を残せなかった選手だと言えよう。

 苦労人であり人望も高く、ロッテでコーチや二軍監督を歴任したのちに1999年からロッテの監督となった。5年間すべてBクラス。優勝することはできなかったが、この時代に起用された若手選手が、05年の日本一の中心メンバーとなった。

 昨年、長男の山本武白志が育成ドラフト2位でDeNAに入団。期待をかけていたが、その成長を見ることなく64歳で逝去した。若すぎる死だった。

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