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多田野数人、ドラフト1位の肖像#1――憧れだった六大学野球と、人生が激変した大学4年秋

かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。

2017/07/13

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田崎健太



大学4年の秋、ドラフト候補に挙がるが……

 夏の甲子園が終わった後、多田野が六大学で投げたいという話を聞きつけた立教大学から、来ないかと話を貰った。推薦入学試験の科目は、英語と面接だった。試験まで多田野は毎日英語の勉強を続け、合格。多田野は中学生のときからの夢を叶えることになった。
 
「立教は早稲田とか慶応と比べると強くなかったので、また1年生から投げる機会をもらったんです」
 
 ここで多田野は投手としての才能を開花させることになる。
 
「高校のとき、打つチームじゃなかったので、1点、2点獲られたら負けちゃう。1点の重みを感じて投げてました。それが良かったんでしょうね。大学になるとバットが金属から木になる。インコースに投げておけば、打球が前に飛ばない」
 
 この時点でもまだ、プロ野球を意識したことはなかった。ただ、目の前のバッターをどう打ち取るか、それだけ考えて投げていたという。
 
 4年生になると、多田野の名前はドラフト会議の候補として新聞に名前が出るようになった。
 
「正直、自分にそんな実力があるのかなと思ってました。同級生が就職活動を始める時期で、このまま行けばプロに行けるのかな、野球を続けることができるのかなという感じでした」
 
 ところが――ドラフト会議前に週刊誌で報じられた記事がきっかけとなり、多田野の野球人生は激変することになる。
 
多田野数人、ドラフト1位の肖像#2――日本人2人目の快挙を達成。アメリカで生き残れた起死回生の球種
 
多田野 数人(ただの かずひと)
 
1980年4月25日、東京都出身。八千代松陰高校3年の夏に甲子園出場。立教大学時代には松坂世代の1人として注目を集めた。大学卒業後はクリーブランド・インディアンスとマイナー契約。2004年4月にメジャー昇格を果たすと同年7月2日、メジャー初先発・初勝利を挙げた(日本のプロ球界を経ずにメジャーに昇格したのは日本人選手で2人目)。その後、2006年にアスレチックスとマイナー契約。2007年ドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから1巡目指名を受けて入団、先発・中継ぎとして在籍7年間で18勝をマーク。現在は、BCリーグの石川ミリオンスターズで選手兼任コーチを務める。

 
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