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元木大介、ドラフト1位の肖像#1――野球人生を決めた、父との約束

かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。

2017/10/06

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やっぱりピッチャーをやりたかった

 ――嫌なことは沢山あると思うけど、一度始めたら辞めるなよ。
 
 元木大介の人生を決めたのは、小学2年生でボーイズリーグの「ジュニアホークス」に入る際、父親の稔と交わした約束だった。
 
 元木は1971年12月30日に大阪府豊中市で生まれた。
 
「ぼくらの時代は空き地があったら野球。友だちと遊ぶときも野球。親父も好きで(6歳年上の)兄貴もやっていたので、自然に始めたという感じ」
 
 入団したジュニアホークスは名前通り、南海ホークスと関係があった。小学生チームはホークスの運動場、中学生になると第二グラウンドを使用していたという。
 
 試合に出始めたのは小学4年生の頃からだった。肩の強かった元木は投手として起用され、常に上級生のチームに入るようになった。
 
「気がついたらボールを持って投げてた。ボールを投げるのが好きだったみたい。幼稚園のときのソフトボール投げの記録は未だに破られていないという噂は聞いたことがある。肩の強さは持って生まれたものかな」
 
 同時に『南海ホークス友の会』にも入っており、しばしば大阪球場の試合を見に行ってている。友の会の会員は入場料免除だったのだ。当時のパシフィック・リーグは人気がなく、観客席はいつもがらがらだった。印象に残っているのは、試合前の打撃練習だった。門田博光たちが黒いマスコットバットで打つとボールは次々と柵越えしていった。元木はその姿を仰ぎ見ていた。
 
「プロっていうのは、本当に凄い人たちだと思っていましたよ。将来の夢としてプロ野球選手と書いていましたけど、本当になれるとは思っていなかった」
 
 中学生になると投手から遊撃手にコンバートされた。
 
「やっぱりピッチャーやりたかったですよ。ピッチャーが投げないと野球は始まらないし、花形じゃないですか。でもショートは嫌じゃなかった。ショートって野手の中心。だいたいピッチャーかショートをやっているのは上手いというイメージもあったし。じっとしているのが嫌で、周りを見ながら、いろんな動きがあるというのが合っていたんじゃないかな」
 
 土日はもちろん、休み期間中も全て野球漬けだった。野球を辞めたいと思ったことは何度もあった。その度に父親との約束が頭に浮かんだ。
 
「日曜日は親父の車で練習場まで送ってくれるんです。その点では楽だったんですが、練習態度が悪いって、帰りの車の中でよく怒られてました。ホームランを打ったとか三振とか結果については一切言わない。ただ三振した後、その後の守りについたときの態度に対しては厳しかった」
 
 信号が赤になると車が停まり、助手席にいる自分は怒られる。元木はずっと青のままで走り続けろと願っていた。
 
 こうした練習の甲斐もあり、元木は強打の遊撃手として頭角を現すようになった。
 
 そして、中学を卒業すると大阪府の上宮に進んだ。

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