松沼博久・雅之、ドラフト外の肖像#5――僕たちが巨人ではなく西武を選んだ本当の理由
日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。
2018/10/17
「空白の1日」
はじまりは前年、77年11月のドラフト会議で、読売ジャイアンツ入りを希望していた法政大学の江川が『クラウンライターライオンズ』に指名されたことだった。
江川は入団を拒否し、作新学院職員という身分でアメリカへ遊学することになった。社会人野球に進むと、2年間はプロ野球入りすることが出来ないという規定があった。翌年のドラフト会議までの時間潰し、だった。
翌78年10月、事態が少し動く――。
クラウンライターは他の球団と違った経営形態を取っていた。福岡野球株式会社という組織が運営し、保証金1億円、年間2億円のスポンサー料で「クラウンガスライター」という企業と契約を結んでいた。球団名をネーミングライツとして販売していたのだ。
このクラウンガスライターとの契約がこの年の10月末に終了。そこで堤義明の率いる西武グループへ売却したのだ。新球団名は『西武ライオンズ』となった。
そして、江川の交渉権はクラウンライターから西武ライオンズに移った。西武グループの総帥、堤義明は江川の獲得に注力し、様々な手を尽くした。そしてようやく球団社長の宮内巌がロサンゼルスに滞在していた江川と会っている。その場で江川はライオンズ入団を拒否した。
そして、ドラフト会議の前日、11月21日、江川は記者会見を開き、ジャイアンツ入りを発表した。
野球協約138条によると、前年のドラフト会議の交渉権は11月21日で喪失すると記されていた。そのため、21日の江川は141条の〈いずれの球団にも選択されなかった選手〉に該当し、自由に契約できるという解釈だった。
「空白の1日」事件である――。
セントラル・リーグはこの契約を無効と判断。この決定を不服としたジャイアンツは翌日のドラフト会議を欠席した。
ドラフト会議では、阪神タイガース、南海ホークス、近鉄バファローズ、ロッテオリオンズが江川を1位指名。タイガースが交渉権を獲得している。当初、江川側はタイガースとの接触を拒否。翌79年1月、タイガースが江川と契約を結んだ上で、ジャイアンツの投手、小林繁とトレードという形で決着することになった。