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ヤクルト・阿部健太は「復活のドラマ」を実現なるか 過去にもいた、引退からの現役復帰【広尾晃の「ネタになる記録ばなし」】

ブログ「野球の記録で話したい」を運営中で『プロ野球解説者を解説する』(イーストプレス刊)の著者でもある広尾晃氏。当WEBサイトでは、MLBとNPBの記録をテーマに、週2回、野球ファンがいつもと違う視点で野球を楽しめるコラムを提供していく。今回は、引退後に現役復帰した選手についてだ。

2015/07/14

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現役復帰後の成績が良くなる選手も

 ヤクルトの打撃投手だった阿部健太が育成登録をされて、選手に復帰したことが話題になっている。

 阿部健太は松山商業から2002年のドラフト5巡目で近鉄に入団。恵まれた体格と重い球質が注目され1年目から1軍で登板。その後オリックス、阪神、ヤクルトと移籍し、主に中継ぎで活躍してきた。
 2014年に戦力外となり、打撃投手に転向したが、今年7月に育成契約を結んだ。ヤクルトは今季、内外野で故障者が続出。野手が1軍に引き上げられたため2軍戦では野手が不足し、投手が外野を守るような事態になっていた。

 打撃投手から再度現役復帰した選手は、過去にもいた。入団から引退までと、復活後の成績を並べて紹介する。

広尾様0714表1

 有沢賢持は社会人からドラフト3位でヤクルトに入った左腕投手。1軍出場がないまま1981年に打撃投手になる。しかし1984年に現役復帰、1軍で2年間中継ぎとして登板した。当時、安田猛が引退し、左腕投手が不足していたヤクルトは、有沢を起用したのだ。

 中山裕章は高知商業からドラフト1位で大洋に入団。先発、救援投手として活躍したが、不祥事のため退団。しかしファンの復帰嘆願署名もあって1993年中日に打撃投手として再雇用され、94年1軍復帰、以後8年にわたって中継ぎ投手として活躍した。

 西清孝は、兵庫県東灘高校から84年ドラフト外で南海に入団し、その後広島に移籍。93年に戦力外になり、横浜に打撃投手として入団。その時点で現役復帰を目指していた西は、復帰後96年に1軍へ昇格、中継ぎ投手として4年間活躍した。

 栗山聡は、東京農大生物産業学部からドラフト5位でオリックスに入団。主に先発投手として起用されたものの、実績を上げられず中日に移籍した。2003年には自由契約となりオリックスに打撃投手として入団。翌年伊原監督の目に留まり、救援投手として投げた。

 打撃投手から復活した事情は、それぞれ異なっている。
 しかし、共通しているのは復活後の成績のほうが良い点だ。若くして戦力外になる投手は、制球力に難があったり、試合になると力が発揮できなかったり、何らかの欠点があった投手が多い。
 打撃投手として、力を抜いてストライクゾーンに丁寧に球を投げ込んでいるうちに、投球のコツをつかむこともあるようだ。

 なお、ブルペンで投手の球を受けるブルペン捕手から現役に復帰した選手に杉山俊介がいる。

 砂川北高から95年ドラフト4位で横浜に入団。2001年戦力外となりダイエーにテストを受けて入団。1軍出場を果たすが、2003年に引退。2004年にブルペン捕手としてロッテに入団。しかし二軍の捕手が不足したためこの年現役復帰。2軍では2年間で34試合に出場したが、1軍復帰は果たせなかった。

広尾様0714表2

 昔は選手数も少なく、2軍はぎりぎりの選手数でまわしていた。そのために、1966年7月に開かれたイースタンリーグの幹事会で「選手へ手本を示すため」に、2軍の監督、コーチの出場が許されることが決まった。この制度によって「喝!」で有名だった大沢親分こと故大沢啓二は、東京(現ロッテ)の2軍打撃コーチだった68年4月、武山球場のサンケイ(現ヤクルト)戦で試合途中から左翼を守り、打席にも3回立った(無安打)。この事実は野球史家松井正氏の調査によって明らかになった。

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