前田幸長、ドラフト1位の肖像#1――関節の柔らかさから生まれた、独特の縦カーブが武器に
1988年ドラフト1位でロッテオリオンズに入団した前田幸長。その後、千葉ロッテマリーンズ、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツを経て、最後にはアメリカへ渡り3Aでもプレーをした。プロ野球の中では細身ながらも、独特のカーブとナックルボールを決め球に存在感を発揮した。(2017年2月15日配信分、再掲載)
2020/04/15
田崎健太
投手として育てられた
今も前田幸長の記憶にはっきりと残っているのは、幼稚園の頃、団地のそばにある空き地で父親とキャッチボールをした光景だ。
大学職員として働いていた前田の父親、助司は、ほぼ毎日、決まった時間に帰宅。ボールとグローブをとって二人でボールを投げ合ったのだ。
前田が不思議に思うことが二つある。前田には3つ年上の兄がいる。父親が兄がキャッチボールをしていたという記憶はない。なぜ自分だけだったのか。
そして、もう一つは、父親は最初から腰を下ろして、キャッチャーとして自分のボールを受けたことだ。前田は幼稚園のときから、投手として育てられたのだ。
「最初から左投げでした。(地元のスポーツ)少年団に入れるのが小学校3年生からでした。それまでは親父とひたすらキャッチボールをしていたんでしょうね」
試合に投げ始めたのは小学4年生の終わりからだったという。運動神経には自信はあったが、小柄だったせいもあり、4番打者ではなかった。
「ぼく、人生で4番だけは打ったことがないんですよ。小学生のときは、エースで2番でした。器用で、小技が効くと思われていたのかもしれませんね」
中学校の野球部でも、エースではあったが、一帯に名前を知られるほどの活躍はない。前田によると、中学3年生のとき、「県大会の一歩手前まで行った」のが最高の成績だったという。
当初、進学先として考えたのは、福岡大学附属大濠高校だった。
「夏の大会が終わったあと、親父と進路をどうしようかという話になって、ぼくは福大大濠に行きたいと言ったんです。ただ、福大大濠って勉強ができる学校でした。ぼくは将来プロ野球選手になると決めていたので、勉強していなかった。それで塾にも行ったんですけれど、いまさらって感じですよね。少しは成績があがったんですけれど、福大大濠(の合格ライン)には届かない」