川相昌弘、ドラフト4位の肖像#1――「ぼくたちは長嶋さんの全盛時代というのは知らない。それでも長嶋ファンでした」
ドラフト四位指名―ドラヨンに結果を残している選手が多い。ドラフト一位指名は、その時点で同年代の野球少年の最前列にいると認められたことになる。その意味で、ドラヨンは、二列目以降の男たちとも言える。そんな“ドラヨン”で入団した野球選手を追った10/16発売の新刊「ドラヨン」から一部抜粋で先行公開する。
2019/10/11
田崎健太
「幼稚園か保育園の頃からボールを投げたりしていましたね」
本物の夢とはほとんど叶わないものだ。
お気に入りの選手の背番号のついた寝間着を着て、親に買ってもらったグローブを枕元に置いて眠るような野球少年が、目標としていた甲子園に出場し、憧れていたプロ野球球団からドラフトで指名されるという確率は宝くじで大金を手に入れるようなものだ。ただ、その可能性はゼロではない。川相昌弘のような男がいるからだ。
一九六四年九月、川相は岡山県高梁市で生まれた。三つ年下の弟が一人いる。川相が一歳になった頃、一家は父親の実家に近い、児島郡藤田村に移った。一帯は瀬戸内海に面した児島湾を干拓した田園地帯だった。七五年に藤田村は岡山市に吸収合併されている。
野球の真似事を始めたのは、早かった。
「お袋が高校までバレーボールをやっていたんですよ。スポーツが好きだったので、幼稚園か保育園の頃からボールを投げたりしていましたね」
鮮明に覚えているのは、〝ウルトラマシン〞という玩具で遊んだことだ。ウルトラマシンは任天堂が発売していた家庭用バッティングマシンである。レールの上に並べられたピンポン球ほどの小さな球を、プラスティック製の〝アーム〞が回転して飛ばす。それを小さなバットで打つのだ。
父親の禎一は中学生時代、軟式野球に熱中していた。野球の強豪校だった関西高校に進んだが、家業である八百屋の手伝いのため野球部に入れなかった。
「戦後の忙しい時期で、野球なんかやっている暇はないって。巨人が大好きで、店の手伝いをしながらラジオで中継を聞いていたそうです」
高校で野球をやらせてくれればプロ野球選手になっていた、というのが父の口癖だった。高校卒業後、高梁市の文房具屋で働き、見合い結婚。そこで川相が産まれた。藤田村に戻ってからは、母の時子が文房具店を切り盛りし、禎一は会社勤めをしていた。