夏の高校野球熊本大会、被災した藤崎台球場開催決定の意義。プロ・アマ野球界結束で「復興の第一歩」に
6月21日、熊本県が熊本城の曲郭内にある藤崎台球場の7月10日からの使用再開を決めた。この決定は、単に一つの球場の使用が可能になったということではない。高校球児にとって聖地ともいわれる藤崎台球場が復興に向けての足掛かりとなる。
2016/06/23
王貞治氏が現役最後の本塁打を放った球場として知られる
九州学院の坂井宏安監督が語っていたことがある。
「藤崎台こそ熊本県の球児たちにとっては甲子園そのものなんです」
熊本野球界の“聖地”藤崎台県営野球場は、1960年の熊本国体開催を機に建設された。当時としては珍しい国際規格をクリアする日本屈指の巨大フィールド(両翼99・1m、中堅121・92m)を有したため、その名は瞬く間に県内外のファンに認知されていく。
この広大なフィールドを舞台に、過去にはプロ・アマ問わず幾多の名勝負、名場面が繰り広げられてきた。
1980年秋に巨人の王貞治が現役最後の本塁打を放ったのがここ藤崎台であり、1987年に行われた巨人×中日の公式戦では、背中への死球に激昂したウォーレン・クロマティが宮下昌巳の顔面に右ストレートを炸裂させ、プロ野球史に残る伝説的な大騒動に発展したこともあった。
高校野球でも印象に残る試合は多い。
のちに選手、監督として日本プロ野球界を極めた秋山幸二(八代、元ソフトバンク監督)と伊東勤(熊本工、現ロッテ監督)がアーチ合戦を演じた1980年夏の決勝や、前田智徳(熊本工、元広島)による1989年夏の決勝逆転本塁打、さらに1996年夏決勝の熊本工と東海大二(現東海大星翔)による15-11という大打撃戦もあった。
また、球場が持つ個性も際立っている。
もともと、藤崎台球場は、西南戦争の激戦で焼け落ちた藤崎八旛宮の跡地に建設され、熊本市民のシンボル、熊本城の曲郭(くるわ)内にある。ちなみに、左中間にそびえる日本最大級として群生するクスノキは明治以前の名残を現在に伝える名物で、球場の落成よりも36年も前に国から天然記念物に指定されている。
その枝葉は左中間最深部からグラウンド部分に1メートル以上もせり出しているが、とにかく国の天然記念物だけに手を加えることが許されない。したがって、高校野球では打球がこれに接触した場合は認定本塁打となり、プロ野球では打球がフィールド内に落ちてきた場合はインプレーとして試合が続行されるという、藤崎台特有のローカルルールも生まれている。
夏の高校野球開催中は、クスノキ群が作りだす巨大な木陰で寝そべりながら観戦している一般客の姿も目に付く。また、外野が深い藤崎台にあっては、天然記念物の枝葉がラッキーゾーン的な役割を果たし、ごく稀に本塁打がここに飛び込むと、木々の間から鳩が一斉に飛び出すという、これまた藤崎台ならではの光景が繰り広げられるのである。
熊本の子どもたちは、まずこの藤崎台でプレーすることを夢に見るのだという。
以前にある指導者が「もちろん勝って甲子園には行きたい。しかし、夏にこの球場で戦い、散っていくことにも、同じぐらいの価値があるのだ」と語っていたが、この言葉こそが熊本野球人の総意なのではないか。おそらく冒頭に登場した坂井監督も、同じことを言っているのだと思う。
しかし、熊本の野球人たちが敬愛して止まない藤崎台球場が、今年4月の熊本地震で大損害を被ってしまった。
4月14日と16日に最大震度7を2度観測した熊本地震では、藤崎台球場のある熊本市中央区でも5強、6強の強い揺れを観測。その後もマグニチュード5、震度5以上で揺れた20回を含む1500回以上の余震を数える中で、内野席通路の壁や天井が剥がれ落ち、高校時代の前田が驚弾を直撃させたバックスクリーンも、上部半分がごっそりと落下してしまった。
クスノキ群後方にある駐車場から球場へと向かう通路には石垣が崩れ落ち、左翼席上段のネットは左翼ポールからバックスクリーンにかけてほぼ崩壊した。