大阪桐蔭・西谷浩一監督が高校野球で指導する理由。甲子園が遠かった球児時代…
西岡剛、中村剛也、中田翔、平田良介、浅村栄斗、藤浪晋太郎……現在、プロで活躍する選手を多く輩出している大阪桐蔭高校の西谷浩一監督。彼らを指導した西谷浩一監督は、時代や社会環境がどんなに変化しても、「高校球児の甲子園に対する想いは全く変わらない」という。(『ベースボールサミットVol.3 』より)
2015/01/24
Shirou Tanigami
金村義明氏に憧れて報徳学園へ
――まず、野球少年だった頃を振り返って頂き、西谷監督の甲子園球場の思い出について聞かせてください。
僕は兵庫県の宝塚で育ちましたから、甲子園球場とは非常に近かったんです。甲子園といえば、一つは阪神タイガース。小学生の頃は子どもの会に入ってよく友達や一人でもナイターを見に行っていました。夜8時半には球場を出る約束を家でして来ているから、時間になるといつも「もうちょっとだけ」と公衆電話から電話をかけて『延長観戦』(笑)。あの大きさと、カクテル光線の鮮やかさ、そして雰囲気。子どもながらに圧倒されました。
――部屋には掛布選手のポスターも張っていたとか……。高校野球への憧れ、もう一方の甲子園となるとどうでしょう。
もちろん高校野球も大好きで、中でも強烈に甲子園に惹かれたのは金村義明さんがエースで報徳学園が優勝した夏(1981年)。僕が小学6年生のときでしたけど、あれから報徳に行きたい、報徳で甲子園に出たい、という思いが一気に強くなりました。学校から帰ったら、自転車で報徳の練習を見に行って、絶対俺もここで甲子園に出る、と思っていましたから。
――当たり前ですが、西谷監督にも世間の子どもたちと同じ、野球少年の時代があったのですね。
野球を始めた子どもはみんな二つの目標を持つと思うんです。一つはプロ野球選手になることで、もう一つは高校野球で甲子園に出ること。プロは本当に夢の世界ですが、高校野球における甲子園は本気で目指せる場所。これがあるから野球が日本では文化として根付いたのだろうと思います。
――甲子園に出たい、という思いは、ほとんどすべての野球少年の中にありますからね。
社会を取り巻く環境、教育の現場、野球のスタイル……様々変わっても、その思いは変わらない。これだけ変化の激しい時代に変わらないものを探すことは本当に難しいですけど、数少ない一つが、野球少年の甲子園に対する思いだと思います。
――確かにそうですね。
今、ウチの練習場は山の中にありますが、自転車で練習を見に来る子どもたちがいたりするとうれしいですよね。見つけるとしゃべりにいったりもしますから。
――子どもはビックリするでしょう。
「うわ、監督や! 本物や!」みたいな反応ですよ(笑)。それで「高校になったら大阪桐蔭で野球をやりたいんです!」とか言われて、「よっしゃ、期待してるからな」って返してやるとうれしそうな顔をして。でも、それは大阪桐蔭に対するというより、甲子園に対する思いがまずあってこそ。子どもたちも甲子園でウチが戦う姿を見て、憧れてくれるわけですから。
――やはり、甲子園は偉大だ、と。一方で甲子園に出場できる選手はごく一握り。多くの高校球児は夢が叶わず、挫折も多く味わうことでしょう
そうですね。実際にはうまくいかないことだらけ。僕も子ども時代の憧れを貫き、報徳学園へ進みましたが、思うようにはいかないことばかりでした。今、チームの選手を見てもそうです。結果が出ない、試合で使ってもらえない、遠征メンバーから外れる……。選手は9割不安と葛藤の中で毎日を過ごしているはずです。でも、そこに甲子園への思いがあるから乗り越えられるんだと思います。
――西谷監督の高校時代についてもう少し聞かせてください。
高校1年と3年のときに部員の不祥事もあり3年間のうち、半分は試合ができないような状態でした。最後の夏も5月頃に下級生の問題が出て出場辞退。県大会開幕の日にチームで紅白戦をして高校生活は終わりました。
――戦わずしての終わりですか。それは何よりつらいですね。
報徳学園は学校が甲子園から約5キロのところにあるんです。だから、本当に甲子園を身近に感じられる環境にあって、例えば甲子園大会の開会式のときにはセレモニーの爆竹音も聞こえてくる。報徳のグラウンドが当時は甲子園出場校の練習会場にも割り当てられていて、時には自分たちの練習が始まる前に1年生が手伝いをしたり……。あと、やはり当時は、報徳の選手が甲子園の試合時のボールボーイもしていたんです。僕は行かなかったですけど、行って帰ってきた同級生が「清原がでっかいホームラン打ったで」とか言って。そういうのを聞くとまた甲子園への思いが大きくなったんですけど、本当に近くて遠い、まさにそんな思いの3年間でした。