地元はフィーバー! 82年ぶりセンバツ出場の松山東(愛媛)は「不屈」の伝統で挑む
名門・松山東が甲子園に帰ってくる。久しぶりの甲子園出場に地元も大賑わいだ。
2015/03/21
寺下友徳
1月23日のセンバツ出場決定日に前身の松山藩校「明教館」で笑顔の松山東野球部員
選手主導で練習効率化と、ID野球を駆使
俳句と温泉が生活の中にあり、目を上げると天守閣。県都としての住みやすさでは全国屈指の51万人都市・愛媛県松山市。そんな街が2015年3月、久々に「高校野球ブーム」に沸いている。
その主役は旧・松山藩校「明教館」の流れを組み、旧制中学時代は「野球」という言葉を生み出した正岡子規や近鉄バファローズのオーナーだった佐伯 勇も一時期学んだ名門。さらに文豪・夏目漱石もかつて教鞭を執り、現在も県内トップクラスの進学実績を誇る愛媛県立松山東高等学校の野球部である。
平日の放課後全体練習時間は2時間半程度で、内野スペースのみ。にもかかわらず選手主導による徹底した練習効率化と対戦相手を調べ上げるデータ野球を駆使し、夏秋連続愛媛県大会準優勝と63年ぶり秋季四国大会出場を達成。その成果が認められ、今大会では「21世紀枠」で実に82年ぶり、夏を合わせても65年ぶりとなる甲子園出場を果たした。
政財界はじめ地元の喜びはひとかたではない。
中心街には横断幕・懸垂幕がはためき、民放TV局では松山東OBが要職を務める企業による「がんばれ!松山東高!」CMが何度も流れる状況。二松学舎大付(東京)との初戦における応援バスは、すでに駐車場収容台数の大型バス50台が埋まっている。松山市にある高校からの甲子園出場は豪腕・安樂智大(現・東北楽天)が2年生エースだった済美が春夏連続出場を果たして以来2年ぶりとなるが、それとは比較にならないフィーバーぶりだ。
そんな松山東野球部の歴史を改めて振り返ってみると、「不屈」というキーワードが浮かんでくる。
『子規が伝えて120年~松山中学・松山一高・松山東高野球史』(松山東高校野球部史編集委員会・野球部OB会明教倶楽部刊)によれば、1889(明治22)年に正岡子規が野球を伝えたことが契機だ。1892(明治25)年、旧制松山中時代に創部されて以来、まず覇を競い合ってきたのは1902年創部の愛媛県立松山商業高等学校野球部だった。まだ全国大会がない明治時代は、松山商に対して連戦連勝だった松山中だが、1918(大正7)年10月17日に松山商が対松山中初勝利をあげると立場は逆転。その時の監督は今年1月に公開された映画『KANO』の主人公ともなった松山商初代監督・近藤兵太郎である。
「優勝旗を敵から奪い取ってこの日の恥を注ぐ」
当時の誓いは、18年の時を超えて1932(昭和7)年大晦日の四国大会県予選準決勝で、すでに春2回・夏1回の全国制覇を果たしていた松山商との接戦を制し、翌年松山中はセンバツ初出場で成就した。
さらに夏は県大会で松山商にコールド勝ち。四国大会でも初優勝し夏の甲子園初出場。ベスト4の快挙。そして甲子園初戦となる2回戦において13安打・10対1で圧勝した相手は、2年前に甲子園初出場で準優勝を成し遂げた……そう『KANO』のワンシーンでも出てきた近藤兵太郎率いる嘉義農林だった。松山商戦連勝を止められた指揮官へ15年越しのリベンジ。これに対し当時の海南新聞(現・愛媛新聞)は、「郷土の期待に背かず初陣にこの功名」と彼らの勝利を讃えた。松山東の「不屈」のベースは、ここから始まった。