「野球を1から始めるため」マイケル・ジョーダンはアスレチックスからのメジャー契約オファーを断っていた
2020/04/27
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野球に本気で取り組んだジョーダン
マイナーリーグ公式ウェブサイト『milb.com』にはジョーダンの選手プロフィールがあり、ジョーダンが1994年シーズンをホワイトソックス傘下2Aバーミングハム・バロンズで127試合に出場し、打率.202、本塁打3本、盗塁30個を挙げた記録が残されている。
ジョーダンの新人マイナーリーグ選手としての成績はメジャー昇格に相応しいものだったとは言えないだろう。だが、もしジョーダンがアスレチックスからのオファーを受け入れていたら、名将トニー・ラルーサ監督の指揮の下、リッキー・ヘンダーソンやマーク・マグワイアらとチームメイトになって、ジョーダンは一体どんなプレーを見せただろうと想像することは楽しい。
1994年のメジャーリーグはストライキの影響でシーズンが短縮され、ポストシーズンも中止になった。アスレチックスは51勝63敗で、アメリカンリーグ西地区2位でシーズンを終えている。のちに映画『マネーボール』で知られることになるビリー・ビーン氏は当時まだアルダーソン氏のアシスタントだった。
ジョーダンの野球への取り組みは本気だったように思われる。2Aでフルシーズンを過ごし、チームが遠征になれば、時には12時間以上もバスに揺られ、チームメイトと同じLa Quinta Inns(安ホテルチェーン)に宿泊した。レギュラーシーズンが終わると、有望マイナー選手たちが集まる秋季アリゾナリーグにも出場している。秋季リーグの成績は36試合で打率.260と、レギュラーシーズンより上向いていた。
ジョーダンは翌1995年の春季キャンプにも現れ、3Aナッシュビルへの昇格がほぼ決まっていた。だが、メジャー選手会のストライキが続き、シーズン開幕の時期が不透明だったことから、ジョーダンは野球の道を断念し、バスケットボールへの復帰を決めた。
その後メジャーのストライキは終結し、1995年シーズンは例年より約1か月遅れて4月25日に開幕した。そしてその年、日本からロサンゼルス・ドジャーズにやってきた野茂英雄投手の大活躍が日米の野球ファンを熱狂させた。NBAに復帰したジョーダンは翌1995-96年シーズンからブルズを2回目となる3連覇(「スリーピート」)へ導き、新たな伝説を歴史に刻んだ。
角谷剛