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【PR】知られざる、ジャイアント馬場のプロ野球選手時代

日本中のファンに愛されたプロレスラーのジャイアント馬場。今や、プロ野球選手だったことを知る人は少なくなりつつある。

2015/12/30

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『巨人軍の巨人馬場正平』(イーストプレス刊)より(報知新聞撮影)



硬球を握ってわずか120日で巨人へ

 亡くなって間もなく17年になるが、ジャイアント馬場はいまだにプロレスファンにとって最大のスターであり、レジェンドであり続けている。
 
 しかしこのジャイアント馬場がプロ野球選手だったことを知る人は少なくなった。そもそも「ジャイアント」というリングネームは、讀賣ジャイアンツに在籍していたことからつけられたものなのだ。
 
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 ジャイアント馬場こと、馬場正平が巨人に入団したのは今から60年前のこと。長嶋茂雄や王貞治はまだ入団していない。川上哲治が巨人の4番を打っていた時代だ。
 
 馬場正平の巨人時代の事績を追いかけると、今では考えられないことがたくさん出てくる。
 
 馬場正平は高校を2年で中退して巨人に入っている。17歳の時だ。これも異例だが、馬場は高校1年の時は、足に合うスパイクがなかったために野球部に入らず、美術部で絵を描いていた。2年生になって野球部部長がスパイクをプレゼント。ようやく念願の野球部に入ったのだが、それからわずか4カ月でプロ入りを決めている。硬球を握って120日しか経っていなかったのだ。
 

二軍の試合ではどこでも人気だった

 当時のプロ野球界は二軍も独立採算だった。
 馬場が入団した55年当時、関東地区には二つの二軍のリーグがあり、どちらも公式戦を行っていた。しかし翌年には二つともリーグが消滅。巨人は、公式戦がないまま他球団を伴って全国各地をまわり練習試合をしたのだ。
 
 馬場正平は、1、2年目は素人同然だったためにあまり試合に出なかったが、3年目には二軍の主力となる。
 
 すでに2メートル近い巨人になっていた馬場正平は、行く先々で人気者となった。当時からショーマンシップに富んでいた馬場は、マウンドで水車のように手をぐるぐると回したが、これも人気になった。
 
 馬場正平が投げると予告するとどこの球場も満員になった。とくに地元、新潟県では馬場の人気は絶大で、いつも超満員となった。
 
 このために巨人は、58年には3回も新潟遠征を行っている。馬場はほとんど1軍での実績がなかったが、この年の1月にはゴジラ映画などのヒロインとして知られる同郷の女優水野久美とともに、故郷新潟県三条市で凱旋パレードをしている。
 
 馬場正平がなかなか一軍に上がれなかったのは、二軍最大のスターになってしまったため、二軍幹部が興行のために彼を手放さなかったことも大きかった。

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