【PR】知られざる、ジャイアント馬場のプロ野球選手時代
日本中のファンに愛されたプロレスラーのジャイアント馬場。今や、プロ野球選手だったことを知る人は少なくなりつつある。
2015/12/30
『巨人軍の巨人馬場正平』(イーストプレス刊)より(報知新聞撮影)
杉下の200勝がかかった試合で好投
馬場は3年目57年の8月に一軍で投げる。最初に対戦したのは阪神の吉田義男。167センチの吉田と2メートル近い馬場の対戦に場内は沸いた。馬場は吉田をショートゴロに打ち取る。
この年の10月23日、馬場は後楽園ではじめて先発投手を任される。相手は中日。中日の先発は大投手・杉下茂。杉下はこの試合に200勝がかかっていた。巨人は前日にセリーグ優勝を決めていた。巨人・水原監督は、杉下茂に200勝をプレゼントするつもりで馬場をマウンドに上げた。
しかし張り切った馬場は1回に失点したものの5回まで好投。水原監督は「空気を読まない」と怒って馬場に代打を送る。
当時、巨人の一軍と二軍の首脳陣は仲が悪かった。二軍生活が長い馬場は、水原監督にとっては「敵対するグループ」の一員だったのだ。
そのこともあってか、馬場正平は二度と一軍に呼ばれなかった。
なお、これまでの馬場の伝記には、この一軍での登板の直後に目が見えなくなり、12月に脳の大手術を受けていると書かれているが、この秋に出版された拙著『巨人軍の巨人 馬場正平』(イーストプレス刊)によれば、馬場の手術はその1年前であることがわかった。
風呂場の転倒で野球を断念
馬場は巨人症であり、脳下垂体にできた良性の腫瘍が視神経を圧迫して失明しそうになっていた。これを東大教授清水健太郎の執刀で除去したのだ。
技術の発達によってこの手術は今では危険性は大きくないが、当時は3人に1人は死んでいたと言われる難手術だった。現代の脳神経外科の権威は、馬場の手術記録を見て「成功したのは奇跡としか言いようがない」と言っている。
巨人軍投手・馬場正平の公式記録は登板数3、0勝1敗、防御率1.29、二軍の非公式記録は判明している分だけで登板数54、15勝8敗だった。
5年目で戦力外となった馬場はテストを受けて大洋に入団するが、明石キャンプの風呂場で転倒して左腕を36針縫う大けがをし、野球を断念した。
率直に言ってもし馬場がけがをせずプロ野球選手を続けていたら、体が大きいだけの平凡な選手で終わった可能性が高かっただろう。
やはり馬場正平は、プロレスラーになるべき運命だったと言っていいのではないか。
【書籍紹介】
『巨人軍の巨人馬場正平』
(広尾晃著 イーストプレス刊 2,000円)
国民的スター“ジャイアント馬場”の知られざる野球時代。
新潟三条での青春時代、モルモン教との出会い、難病“巨人症”との闘い、憧れの読売巨人軍入団、長嶋茂雄・王貞治との交流、プロの壁、成功率1%の大手術、二軍での馬場旋風、早すぎる引退。
現存する詳細なスコアと関係者への取材により、偉大なプロレスラー・ジャイアント馬場の「野球選手」としての実像に迫る。