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かつての日本人最速投手は背番号121に。岡林、伊藤智も這い上がってきた道、復活を目指す由規

かつて日本人最速投手だった由規。来季、育成選手から再起を図る。

2015/11/16

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高速スライダーを武器に活躍した伊藤智。3度の右肩手術を経験

 1992年のドラフト会議で3球団の競合の末、ヤクルトに入団した伊藤智仁(現ヤクルト一軍投手コーチ)は、1993年のルーキーイヤーに前半戦だけで7勝2敗、防御率0.91という成績を残し新人王を獲得。150キロを超えるストレートと、伝家の宝刀・高速スライダーを武器に、三振の山を築いた。

 同年6月9日の巨人戦(金沢)では16奪三振と好投したが、0-0と味方の援護に恵まれないまま、9回裏に篠塚和典のサヨナラ本塁打で敗戦投手になったこともある。伊藤の投げた150球目だった。

 1試合の平均奪三振数は10個を超えていた。奪三振数は前半戦のみで126個。三振が多いゆえに球数も多くなる。200球近く投げた試合もあったほどだ。岡林と同じく、一年目からの疲労は大きかった。7月には右肘を痛め、後半戦は一度もマウンドに上がることはなかった。

 伊藤の特徴は、関節が普通の人よりも柔らかく可動域が広いこと。それゆえ、ストレートの速さに加えてスライダーの曲がりが鋭くなるが、同時に肩への負担も大きかった。
 右肘痛は回復したが、94年のキャンプ中に右肩を痛め最初の手術を行うことになる。96年の途中から復帰し、97年には抑えとして7勝19セーブを挙げ、カムバック賞を獲得。鬼気迫る表情で相手打者をねじ伏せる姿は、まさに圧巻だった。

 98年には再び先発として復帰。しかし、右肩の血行障害や右肩関節唇の損傷で、94年と合わせ3度の右肩手術を行っている。まさに傷だらけの戦いだった。2003年に引退したが、怪我の度に不屈の闘志で這い上がってきた投手だった。

 ヤクルトの黄金期を支え、ファンの中では今でも語り草となる、岡林、伊藤智の両右腕。
二人に共通するのは、チームのために腕を振り続け、その代償を右肩に負ってしまったこと。しかし、怪我を乗り越え、先発やリリーフとして“いまやるべきこと”をマウンド上で体現してきた。

 再び神宮で投げるという思いを込めて――。由規は、2軍の戸田グラウンドで行われている秋季練習で中一日の間隔を空けた、100球前後の球数で投球練習を行っている。

 肩の手術から完全復活を遂げるのは生易しいものではない。
 リハビリを行う選手と育成契約を結ぶというのは、本来の“育成”という目的を見失いがちだ。だが、最速161キロを誇った右腕が再び一軍の舞台で投げる姿をファンは待ち望んでいる。

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