有言実行でつかんだ甲子園切符とプロ入り【“中田翔を倒した男”植松優友#3】
背番号「51」。世間的にはスーパースター、イチローの代名詞でもあるこのナンバーを背負った男が、この秋、ひっそりとユニフォームを脱いだ。元千葉ロッテマリーンズ、植松優友26歳。かつて“中田翔を倒した男”と騒がれ、プロでは未勝利に終わった未完のナックルボーラーが、その野球人生をいま振りかえる――。
2015/12/07
雲の上の“怪物”を倒して一躍時の人に
「いや、そこは俺ちゃうやろ」
2007年の夏。甲子園の出場校を特集した雑誌の表紙をめくると、開いてすぐの巻頭ページに自分がいた。この年、植松優友を擁する金光大阪は、前年夏と同じ組み合わせとなった大阪大会の決勝で、宿敵・大阪桐蔭に見事リベンジ。エースとして全5打席をパーフェクトに抑えてみせた彼の名前は、“中田翔を倒した男”として、全国に知れわたることとなっていた。
むろん、本来世間が望んでいたのが、「“怪物”中田翔の最後の夏」であることぐらい、それを阻止した当事者である彼自身にもわかってはいた。だが、そんなことは同じ大阪で“打倒・桐蔭”を掲げたときから承知のうえ。死にもの狂いの練習に耐えてきたという自負心が、周囲に漂うそんな“自分じゃない感”をも楽しむ余裕を、彼に与えていた。
「それまで雲の上の存在やったんが、2年の夏に当たって『俺でもここまで投げられるんや』って思えたんですね。でも、秋の大会でもまた負けて、そこからの半年間は自分のなかでも『桐蔭にさえ勝てたら、他の高校には負けてもいい』ぐらいの気持ちで、ひたすら練習。だから、まわりはすごく喜んでたけど、僕自身は実際のところ『勝って当たりまえや』と思ってたんです。僕らはあくまでチャレンジャー。それぐらいの強い気持ちでないと勝てない相手でしたしね」
本格的にピッチャーに転向したのは、高校入学後。サッカー部とどちらにするかを迷ったすえに入った野球部の初練習には「近所のスポーツショップに自分に合うサイズが売ってなかった」という理由で、スパイクもないまま参加した。「3年間、楽しくやれたらそれでいい」。それが、野球部の門を叩いた当時の、のちに高校球界を騒がせた男の本心だった。
「僕らの頃は、サッカー部に入るには入部説明会への参加が必須やったんですけど、その日にちょうど友達と遊びに行く約束をしててね(笑)。『まぁ、ええか』ってことで、野球部にしたんです。ピッチャーにしたのも、小学校のときにちょっと投げたことがあって、『あんとき楽しかったし、どうせやるんやったら』ぐらいの軽い気持ち。だから、最初は『セットポジションで投げてみ』って言われても、『えっ!? どうやって投げるんやったっけ?』って感じでしたしね(笑)」