未完に終わったナックルボーラーのこれから【“中田翔を倒した男”植松優友#4】
背番号「51」。世間的にはスーパースター、イチローの代名詞でもあるこのナンバーを背負った男が、この秋、ひっそりとユニフォームを脱いだ。元千葉ロッテマリーンズ、植松優友26歳。かつて“中田翔を倒した男”と騒がれ、プロでは未勝利に終わった未完のナックルボーラーが、その野球人生をいま振りかえる――。
2015/12/10
誰よりも“友に優しい”男の最後の夏
2007年の第89回全国高校野球選手権大会、3日目第2試合。“怪物”を擁した大阪桐蔭を撃破して乗りこんだ甲子園で、夏初出場の金光大阪は初戦の相手・神村学園(鹿児島)に3対6と敗戦。中田翔を13打数ノーヒットに封じた植松優友の夏は、いともあっさりと終わりを告げた。5回までに3点をリードしながらの逆転負け。素人眼にも、それは“勝てた”試合でもあった。
「テレビではショートの谷田(達志)のエラーばっかりがクローズアップされましたけど、あれは僕が悪いんです。実はあの試合の前日、ずっと一緒に練習してきた双子の吉見兄弟(同校OBでもあるドラゴンズ・吉見一起の実弟)のかたわれが熱を出してね。僕はアホやから、夜中の3時か4時ぐらいまで、ずっと看病してたんです。いざ試合になったら、2回ぐらいからちょっとした熱中症みたいな感じになって、全身が攣ってきて、最初から飛ばしてたぶん、バテんのも早かった。だから、逆転を許した6回の4失点は完全に僕の責任なんですよ。終わってから、監督にも言われましたしね。『人間としては成功やけど、エースとしては失格や』って(笑)」
決して野球エリートが集まる強豪校ではなかった当時のチームには、かつての自分がそうであったように「3年間楽しめたらそれでいい」という部員たちも少なくなかった。それでも、大会を勝ちあがるにつれて、彼らは徐々に結束。チーム一丸となってつかんだ大舞台は、たとえ初戦敗退であっても、「一緒にやれて、ホンマによかった」と思える集大成となった。
「僕がプロにまでなれたんは、一度は野球をあきらめた僕を呼びもどしてくれたコーチの芝野(恵介)さん(現:和歌山・初芝橋本高校野球部監督)や、同じピッチャーとして尊敬しあえるライバルだった弓削(翔平)、まわりのチームメイトのみんながいてくれたおかげ。そういう意味でも、1軍でしっかり活躍して、恩返しがしたかったんですけどね」
同年の高校生ドラフトでは、ファイターズ1巡目の中田翔と同じパ・リーグのマリーンズから3巡目指名。高校球界を沸かせたふたりのプロでの再戦への期待は、否が応でも高まった。だが、プロでの直接対決は、ファームであった一度きり。その後は、瞬く間に差がついた。
「2打席か3打席。ファームで対戦したときも、きっちり抑えてはいるんです(笑)。ただ、高1のときにテレビで初めて観たときから、彼と僕とは『モノが違う』っていうのは十分すぎるくらいわかってた。彼を抑えられたときに感じた、アドレナリンがガッと出てくるような快感が、『野球は楽しい』と思えるようになった僕自身の“原点”であることも確かなんですけどね」