投球回数はサファテやバーネットの約2倍。板東英二は「救援投手のパイオニア」
今や9回の守護神をいかに固定できるかがペナントレースを制する一つのカギになっている。しかしかつてクローザーという明確なポジションは存在していなかった。その先駆けとなった選手は板東英二だ。
2015/12/20
かつてはエースがクロ―ザーも兼務
2015年のセーブ王は、パリーグがソフトバンクのサファテの41S。セリーグがヤクルトのバーネットと阪神、呉昇桓が41Sだった。
セ・パ両リーグの最多セーブ投手が、優勝チームから出たことでもわかるように、今や救援投手、とりわけクローザーはペナントレースを左右する重要なポジションだ。
先発完投型の投手がほとんどいない今の野球では、絶対的なクローザーは勝負のカギを握っている。
しかし、1974年に「セーブ」が公式記録に加えられるまでは、救援投手の役割は明確でなかった。中継ぎ投手は先発ローテーションを外れたベテランや新人投手が担うことが多かった。
今でいうクローザーは、先発投手がローテーションの合間に掛け持ちで投げることが多かった。
野球史家で昔の公式戦のスコアを調査している田畑智則氏によると、1961年にNPB最多勝(42勝)を記録した西鉄の稲尾和久は先発で24勝5敗、救援で18勝9敗、さらに今の基準で言えば11セーブを挙げている。救援勝利とセーブを足したセーブポイントは29。
当時はエースがクローザーも兼ねるのが当たり前だった。
そんな中で、実はNPB史上初の「専門のクローザー」として売り出したのが中日の板東英二だ。
徳島商業時代、1958年夏の甲子園の準優勝投手だ。準々決勝、対魚津高戦で延長18回引き分け再試合。村椿輝雄との投げ合いは日本中を熱狂させた。
この大会でマークした奪三振83個は、一大会における通算奪三振最多記録だ。
王貞治、張本勲と並ぶこの年の高卒有望選手として中日に入団。
プロ入りしてからは60年に10勝、翌年11勝したものの以後は低迷。1964年からは主に救援投手としてマウンドに上がった。
繰り返しになるが、当時はセーブという記録が存在していない。仮に今の基準に照らすとどうなるか。55試合に登板し12勝7敗だった65年は、10勝3敗11セーブ、21セーブポイントを挙げたということになる。まさに抑えの切り札だ。
実はこの年、巨人は宮田征典を救援専門投手にしている。午後8時半を回るとマウンドに上がることから「8時半の男」と言われた宮田は22セーブ、41セーブポイント。MVP候補にもなり、一躍脚光を浴びた。板東は影が薄かった。
しかし、登板過多の影響で宮田が翌年以降活躍できなかったのと対照的に、板東は以後も絶対的な抑えとして活躍した。
現在の「セーブ」という規定があったとした場合、1965年以降の板東英二の救援投手成績だ。
(板東は65年は8試合、66、67年は各1試合先発で投げている。成績は含まない)
1965年 47登板 10勝3敗11セーブ 21セーブポイント 防御率2.17
1966年 59登板 13勝4敗11セーブ 24セーブポイント 防御率2.53
1967年 50登板 14勝6敗7セーブ 21セーブポイント 防御率2.47
66、67年のセーブポイントはリーグ最多。まさに隠れたエースだった。