故障さえなければ…歴代“ガラスのエース”5人。けがに泣かされた一流投手たち
2024/03/09
産経新聞社
与田剛
プロ1年目から中日の守護神を任された与田剛は、「リリーフエース」として強いインパクトを残した。
亜細亜大時代に目立った活躍こそなかったが、社会人野球のNTT東京でプレーを続行。すると、国際親善試合の日本代表入りを果たすなど急激な成長を遂げた。1989年のドラフトでは、中日から1位指名を受けた。
150km/hを超える剛球を武器に、1年目から抑えとしてフル回転。31セーブを挙げて最優秀救援投手(現・最多セーブ)と新人王を同時受賞した。しかし、50試合登板で88イニングを投じ、翌年以降は苦しいシーズンを過ごすことになる。
1991年は背筋痛の影響を受け、登板数は29に減少。翌年は41試合登板で23セーブと復活したが、1993年には両足首を故障。その後も度重なる怪我に悩まされた与田は、ロッテ、日本ハム、阪神と移籍を繰り返したものの、ルーキーイヤー以上の輝きを取り戻すことはできなかった。