【ドラ1の知られざる苦悩】元巨人・辻内崇伸(1)大阪桐蔭入学時は「平民以下の存在だった」
2022/10/13
産経新聞社
中学生から本格的に投手へ
中学校では野球部ではなく、硬球を使用するリトルシニアリーグの「郡山シニア」に入った。最初はやはり四番ファーストだった。
「中1の後半ぐらいですかね。お前、左(投げ)やし、でかいし、いけるやろと。ピッチャーがいなかったんです。そっからピッチャー一本ですね。でも大したピッチャーじゃなかったです。(球速が)105キロとか108キロとか、普通のピッチャーでした」
若干、球速が伸びたのは中学2年のときだった。
「中1で肘を壊して、半年ぐらいボールを投げられなかったんです。陸上部に入って走ったりしていましたね。治ったその日に投げたボールが115キロぐらい出たんです。10キロぐらい、ばっと(球速が)上がった。そこから普通よりもちょっと上ぐらいの速さ(のピッチャー)になって。高校入る前には128キロぐらい出るようになってました」
でも、普通のピッチャーでしたよ、と控えめな表情で付け加えた。
高校で大阪桐蔭を選んだのは、所属する郡山シニアから何人か進むという話になっていたからだ。あくまでも辻内を欲しいと指名されたのではなく、ひと山幾らでザルに載せられていたのだ。
そんな大阪桐蔭で〝平民以下〟の存在だった、辻内が変化の兆しを見せたのは、高校1年生の秋のことだった――。
この記事に興味をもったあなたにおすすめ
ドラフト1位という十字架を背負った者だけがわかる苦悩の数々…
楽天ブックスなどで発売中です↓
『ドライチ ドラフト1位の肖像』