【ドラ1の知られざる苦悩】元横浜・古木克明(3)下位常連チームの悲劇…一貫しなかった育成方針
2022/10/16
産経新聞社
強化方針が一貫しなかった当時のベイスターズ
古木はこれはずいぶん後になってから聞いた話ですと前置きしてこう言う。
「ぼくは2年目のシーズン、二軍ですごくバッティングの調子が良かったんです。なんで(一軍に)上げてくれないんだと思っていた。そうしたら、古木に関しては長い目で見ているので、一軍にはしばらく上げない。二軍で試合に使い続けて、サードとして育ててくれと権藤さんは二軍の監督に頼んでいたらしいです。
ところが、二軍の監督は、守備は不安だし、出場機会を増やしたいからって、外野に持っていったんです。ぼく、子どもの頃から外野手ってやったことなかったんです。ぼくは守備が苦手なのに、外野を守ったり、サードを守ったり。自分のポジションってどこか分からなかった」
権藤の方針は理解できる。
98年の優勝メンバーを見ると、外野はレフトの鈴木尚典、センターの波留敏夫、ライトの佐伯貴弘、あるいは中根仁と二十代の選手が揃っていた。内野に目を向けると、サードの進藤達哉は守備が得意な選手で複数のポジションをこなすことができた。進藤と併用しながら古木をチームの柱に三塁手として育てる――。
しかし、下位に慣れ親しんだ球団というのは監督が頻繁に交替し、強化方針が一貫しない。
2000年、権藤は解任され、翌2001年シーズンから森祇晶が監督に就任した。