【ドラ1の知られざる苦悩】元横浜・古木克明(3)下位常連チームの悲劇…一貫しなかった育成方針
2022/10/16
産経新聞社
「一番大きかったのは守備への不安」
2001年シーズン、古木は一軍に4試合に出場、五度打席に立っている。このシーズンの終了後、古木は契約更改で背番号を3から33に代えると通告された。千葉ロッテマリーンズを自由契約になった石井浩郎を監督の森の意向で獲得していた。三番は石井に与えられることになった。
「やっぱ、悔しかったですよ。くそって思ったし。さらに頭に来たのは、ぼくに番号を選ぶ選択肢がなかったこと。3繋がりで勝手に33にさせられた。それまで33番をつけていた人は悔しがっているし。ぼくが好んでつけたんじゃない。ぼくは全然でっかい番号でも構わなかったのになと思っていた」
古木にとってプロ4年目の2002年は一軍で34試合に出場。一軍への昇格は突然だったという。
「二年目途中に外野手に転向してからはずっと二軍で外野を守っていたのに、一軍に上がるという話になって、1週間ぐらい前から内野の練習を始めたんです。はい?って感じですよ。それで(一軍に昇格すると)いきなりサードを守らされた」
このシーズンは打席は106と少ないものの、打率.320という好成績を残している。翌2003年シーズンは一軍に定着したが、本塁打22本はともかく、打率.208、三振131個は底辺の成績だった。
「一番大きかったのは守備への不安。そしてバッティングがまた分からなくなっていた。進化を求めて、色んなことを試してバッティングを崩してしまった。シーズン途中から代打ばっかりになってしまった。そりゃ代打ばっかりならば三振もするよっていう考えになった。色んなことが複雑に絡み合って、悪い方へ、悪い方へと行ってしまった。もう最悪でしたね」
結局、古木はプロ野球選手として花が咲くことはなかった。