ついに殿堂入りの榎本喜八――「変人」との噂も、60年代最強の安打製造機
2016年度の野球殿堂に「エキスパート部門」で榎本喜八が選出された。
2016/01/23
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王と榎本の師匠も、打撃の名人と絶賛
2016年度、野球殿堂にエキスパート部門で選出された榎本喜八は1936年生まれ。左打ちの一塁手。
長嶋茂雄や野村克也の1学年下、早稲田実業時代には、4番打者として甲子園に3度出場。早稲田実業の4年後輩には王貞治がいる。1955年に毎日オリオンズに入団、1年目からレギュラーに定着し、打率.298をマークし、新人王に輝いた。
以後、17年間オリオンズの主軸選手として活躍(最後の1年は西鉄に移籍)。通算2314安打は歴代15位、通算打率.298は、4000打数以上で歴代24位だ。
野球殿堂入りにふさわしいと言えるが、同時代でプレーした選手たちからは、もっと早くに選出されるべきだったという声が上がっている。
NPB最多安打記録3085本を保持する張本勲は「あの人にはかなわなかった」と言った。
早稲田実業の先輩で、榎本と王貞治の打撃の師匠だった荒川博も「あれだけの打撃の名人はいなかった」と語っている。
榎本喜八が終身打率3割をマークできなかったのは、新人王の翌年から打率が下がり、長いスランプに陥っていたからだ。「3割の壁」が破れないままに、5年が経過。20歳で自宅を購入、そのローンにも苦しみ、精神的にも追い詰められていた。
この時期、榎本はガマガエルを拾ってきては袋に入れて空気銃で撃っていたという。度重なるうちに射撃の腕は飛躍的に上がって、百発百中するようになったが、打撃は一向によくならなかった。
榎本喜八は「変人」と言われるが、確かに不思議なエピソードがたくさん残っている。
この間に、1958年には立教大学から長嶋茂雄が巨人に入団。榎本はオープン戦で長嶋の打撃を目の当たりにして「これは自分よりも上だ」と痛感し、野球では勝てないと思った。榎本は、悔しさのあまり長嶋が一塁に来たら「相撲で勝負だ」というつもりだったという。
59年には試合前の素振りがチームメイト柳田利夫の顔を直撃。柳田は下あごを骨折して病院に運ばれたが、榎本は顔面蒼白になって震えだした。呼びかけても返事もしない。当時の西本幸雄監督は怪我をした柳田よりも、榎本のほうが死んでしまわないかと心配したという。