成功事例は少。クローザーから先発転向に挑戦する藤川球児
今季、阪神に復帰した藤川球児が、先発で再起を図る方針だ。過去に同様のようなケースで成功した投手はいるのだろうか。
2016/02/20
クローザーから先発への転向は少ない
4年ぶりに阪神に復帰した藤川球児が、先発投手への転向を目指して始動した。
藤川は2002年に先発投手として12試合に投げたことがあるが、562登板のうち先発はこれを含め14試合だけ。当代屈指の救援投手として42勝25敗220セーブ102ホールドを挙げている。
藤川はNPBでは2003年の9月19日東京ドームの巨人戦以来、13年ぶりに先発のマウンドを踏もうとしている。
1970年代まで、NPBの投手は先発、救援を掛け持ちする投手は珍しくなかった。
救援から先発に転向する投手もたくさんいたが、74年にセーブが公式記録になって以降、先発、救援の分業が進んだ。
中継ぎから先発への転向は以後も見られたが、クローザーから先発への転向は数えるほどしかない。
■1981年 小松辰雄(中日)
近藤貞雄監督は81年、7月、救援失敗が続いていた抑えの小松を先発に転向させた。77年にドラフト2位で入団した小松は、81年の先発転向前までは22セーブ。近藤貞雄監督は「リズムを取り戻させるため、一時的にアタマに持ってきた」と話した。82年に一時的に抑えに戻ったが、83年からは主に先発投手として活躍。以降は99勝77敗8セーブを記録した。小松は翌年の鈴木と異なり、先発中心になってから実力を発揮した。
■1982年 鈴木孝政(中日)
72年に中日にドラフト1位で入団した鈴木は、前年となる81年までの9シーズンで59勝41敗96セーブ、最多セーブ1回、最優秀救援投手2回を獲得したNPBを代表するクローザーだった。
しかし成績が下降して、近藤貞雄監督の勧めもあって82年シーズン途中に先発へ転向。以後7年で56勝46敗。84年には16勝を挙げたが二けた勝利は1年だけ。クローザー時のような安定した成績は残せなかった。
クローザーから先発への転向は中日が多い。郭源治も先発から抑えに転向し、最優秀救援投手に2回受賞、88年は中日のセリーグ制覇に貢献しMVPも獲得した。その後のシーズンは不調やチーム事情によって先発とリリーフの両方をこなした。94年には最優秀防御率も獲得している。NPB通算106勝106敗116セーブ。