球団誕生とともに50年。応援は、いつまでも「放っておけなくて走る人」の精神で【えのきどいちろうのファイターズチャンネル#216】
高校サッカー選手権の星稜対市立船橋戦には、駆けつけられない応援部隊の代わりに「直接的には関係はない」人々がそれぞれの意志で柏の葉競技場に集い、星稜を応援した。このいてもたってもいられない気持ちは、50年前ファイターズを応援しはじめた頃と重なる。
2024/01/07
産経新聞社
半世紀も一喜一憂し暮らしてきた
胸に手を当てて考えてみると、僕が50年前、ファイターズを応援しはじめた頃の気持ちはまさにこうだった。東映-日拓の後を受け、日本ハムファイターズという風変わりな名前のプロ野球チームが誕生したのだ。パッと見、実業団チームのような(伊藤ハムと試合しそうな)イメージだった。僕は当時、九州に住む中学生で、多分に自意識過剰なきらいがあった。なんかよくわからないが日本ハムファイターズと自分を重ね合わせたのだ。風変りな名前のプロ野球チームはお世辞にも強いとはいえなかった。だけど、何か気になる。放っておけない。平和台球場へ出かけた。
その後、父に転勤の辞令が出て、川崎市の郊外に引っ越すことになるのだが、驚いたことに町の肉屋さんのレジ脇には後楽園球場の内野自由席券が束で置いてあった。ちょっと足をのばせば2軍の練習場「多摩川グランド」(グラウンドじゃなく、「グランド」が正式表記だった)があった。鉄路が寸断された星稜高校の応援のようにせっぱつまったものではない。「ここで行かなきゃ男が廃(すた)る」という義侠心に駆られてもいない。だけど、足が向いた。自分が行かなかったら誰が見てくれるのだと思っていた。考えるより先に動いた。何でわざわざ「多摩川グランド」まで出かけるのか理由はそのときにはわからなかった。
実はファイターズは創設50周年のアニバーサリー・イヤーを迎えた。信じられないことに僕は半世紀も(!)この風変わりな名前のプロ野球チームに呼吸を合わせ、一喜一憂し暮らしてきたことになる。おかげで大沢親分の胴上げも知ってるし、ダルビッシュ有の初登板、大谷翔平のデビューにも立ち会った。だけど、本当の本当はそんなエポック・メイキングな試合ではなく、「チームの連敗が止まらない」「もう今日落としたら終戦だ」というような日に矢も楯もたまらず駆けつけたときの方が大事だった。もちろん自分が応援すれば勝つとか、世の中のためになるなんてことはない。無力といえば大変に無力だ。大概の場合、連敗は伸びたし、土壇場の試合に敗れ、僕がガックリ肩を落として家路についた。そうやって生きてきて14歳の中学生は64歳になったんだ。僕はこの正月、ああ、自分にはまだ放っておけなくて走る馬力があったんだなと面白かった。ファイターズを応援した最初の最初。お調子者で、気になると放っておけなくて、衝動のままとにかく走る体質。
昨秋、球団の方と会食する機会があり、お誘いを受け50周年アニバーサリーに協力することになった。フロントに東京時代のことを知ってる人がほとんど残っていないということだった。そりゃ頼ってもらうのは嬉しい。僕にできることがあったら何でも協力する。
だけど「昔のことをよく知ってる人」ではなく、「放っておけなくて走る人」でありたい。それがいちばん幸福なのだ。日大藤沢サッカー部のワカゾーたち。応援に駆けつけるとき、黄色いゴミ袋を見つけて、それに穴を開けて首を通し、でっかい字で「星稜高校」と書いたとき笑顔だったはずだ。僕も下手くそな字で「キヨ子~!!」とか「松本GO!」とか応援バナーが書きたい。
というわけで50周年アニバーサリー・イヤーも「放っておけなくて走る」方向に注力することになった。ただ新庄監督、お願いだから「チームの連敗が止まらない」「今日負けたら終戦」っていうシナリオは用意しとかないでくださいね。