郭駿麟は成功するのか? 陽岱鋼、チェンなどの活躍で再び台湾から注目を集める日本プロ野球
羅友辰氏は1980年生まれ(「松坂世代です」とご本人)。名門輔仁大学で日本語を学び、卒業後は台湾国際放送RTIの日本語アナウンサーを経て、台湾唯一の通信社である中央通訊社でジャーナリスト、編集者として働く。「フォーカス台湾」と言う日本向けメディアで、スポーツだけでなく、様々な情報を発信している。日本でのプロ野球観戦経験もあり、造詣が深い。羅氏に日本野球で活躍した台湾人選手について聞いた。
2014/11/30
Koh Hiroo
「二郭一荘」以上に強烈なインパクトを残した呂明賜
↑インタビューに応じてくれた羅友辰氏。「フォーカス台湾」と言う日本向けメディアで、スポーツだけでなく、様々な情報を発信している。
――私たちは「台湾と日本野球」というと、まずソフトバンクの王貞治会長が浮かびます。
王貞治さんは、台湾では「旅日名将」と呼ばれている。旅日とは「在日」みたいな意味。日本で活躍した名選手ということだ。
今の日本でいえばイチローのような存在だろうか。実際の王さんは東京生まれで、台湾語は話せないのだが、今も台湾国籍だし別格の扱いだ。
――王貞治さんだけでなく、日本では多くの台湾人選手が活躍してきました。
映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』でも紹介されているように、台湾からは戦前から多くの野球選手が出ている。野手では呉昌征(巨人、阪神などで活躍、首位打者2回、野球殿堂入り)、投手では呉明捷が有名だ。のちに早稲田大学へ進み、ここでもエースとして活躍した。
――王さん以降だと、郭泰源や郭源治が思い出されます。
私たちは「二郭一荘」と言った。中日の郭源治、西武の郭泰源、そしてロッテの荘勝雄のことだ。 彼らの活躍が、のちに台湾にプロ野球を生むことにつながっていると思う。郭源治、郭泰源は台湾で指導者としても活躍している。
でも、その当時、一番インパクトがあったのは呂明賜ではなかったか。
――確かに、突然現れての大活躍は、本当に印象的でした。打てば全部ホームランという感じでした。
台湾でもすごく報道されたが、彼は外国人枠の問題で試合に出場できなくなった。そして台湾に帰ってきた。当時、台湾ではプロ野球が始まっていたから、私たちは彼がどれだけ打つのだろうとすごく期待した。
しかし、思ったような結果にはならなかった。
なぜかと聞かれて、呂は
「日本でフォームを改造されてから打てなくなった」と言った。本当かどうかわからないが(笑)。
それ以来、日本のプロ野球はフォームを改造したり、選手を管理したりするという印象が強くなった。
台湾の野球界には、そうしたNPBのスタイルよりもMLBのやり方のほうが良いという人もいる。CPBL(台湾プロ野球リーグ)のLamigoモンキーズなどは、MLBのような攻撃的なスタイルのチームだ。
――その後も大豊など台湾人選手の活躍はありました。最近はやや少なくなっていましたね。
そう。台湾はプロ野球も誕生して野球人気は高まっていたのに、日本で活躍する選手は少なくなっていた。台湾のレベルが上がっていないのではないかと思った。日本でもそうかもしれないが、台湾でも活躍している選手は「1球当たり何ドル稼いでいる」という表現を使う。
台湾のトップクラスの選手は「1球当たり何ドル」ですごいなと思ったが、日本でプレーしている選手は「1球当たり何万円」。はるかに大きな収入を得ている。これでは全然かなわない。それだけ日本と台湾には大きな差があるのだと思った。