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東京ヤクルト・山田、履正社時代の勝負弱さを練習と意識で克服。同世代のトップ選手へ大成

今や日本球界を代表する選手へ成長を遂げた東京ヤクルトの山田哲人だが、高校時代は勝負弱い打者だった。

2016/08/01

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取り組みが結果となって表れた高校3年生

 翌春、山田は大阪府大会を制し、自信を確かなものにした。

 当然、山田の意識にあったのは、PL学園、そして、吉川だった。当時では、吉川を評価するスカウトが多く、我々メディアも含めて注目していたのは名門で主将を務め、前年夏に甲子園に出場していた男に一目を置いていた。

「(PLと吉川への意識は)結構、ありました。吉川は2年生の時から大阪大会で5本もホームランを打って(下級生での5本塁打は、清原和博、福留孝介、中田翔ら少数しかいない)注目されて、負けてられないなと。さらに、吉川は2年の秋までは外野だったのに、ショートにコンバートしてきた。ドラフト戦線が厳しくなるとも思ったんですけど、自分はずっとショートやったんで、負けられるかという想いがありました」

 そして、夏の大阪大会4回戦、山田の履正社はPL学園とぶつかったのである。
 両者とも、大会の終盤での激突を意識していたが、思いのほか、早い段階での対戦となった。山田にしてみれば、「大一番」の対決である。

 実は、この試合の前日、山田は熱中症でダウンしている。
 夏なのに寒気がして、熱が40度も出て、病院に駆け込んだ。医者からはストップが掛かったが、山田はこの日のためにやってきたのだと強行出場した。

 試合は劣勢の展開で進み、9回を5-7のビハインド。そして、9回表、1死2、3塁の場面で山田に回ってきた。

 この場面で起死回生の同点タイムリーを放つ。くしくも、遊撃手・吉川の横を抜ける執念のヒットだった。試合は延長戦の末、履正社が競り勝った。

「試合に勝つのは当然で、さらに、自分が活躍したことによって試合に勝ちたいと思っていました。その時は体調面もしんどかったけど、今まで自分のせいで負けていましたから、もう、迷惑はかけられないという想いでした。センターに打球が抜けた時は最高でした。自分が期待されていた中で、やっと応えることができた。甲子園が決まった試合では泣かなかったんですけど、その時は人生で一番泣きました。嬉し泣きというより『つらかった泣き』。つらかったな、苦しかったなぁという涙が出た。やっていてよかったと思いました」

 このあと、山田は夏の甲子園に出場。
 2回戦で、小・中学生時代からしのぎを削った中村奨吾(ロッテ)のいた天理を破ると、3回戦では聖光学院に敗れたものの、歳内(阪神)から一時は同点となる2点本塁打を左中間の最深部に運んでいる。

 実は、この本塁打がスカウトたちに山田の実力を認めさせた一発だった。
 2点ビハインドの展開で回ってきた打席。一発が欲しいという展開の中、山田はホームランという形で結果を示し、スカウトたちは山田の実力を再認識した。

 その年のドラフトでヤクルトから1位指名。1年目にデビューを果たすと、着実に出場機会を増やし、昨年のブレーク、今季の凄まじい活躍へと繋がっている。

 思い返せば、彼の同年代には、吉川以外に、智弁和歌山の西川遥輝、天理の中村など、下級生時から活躍した選手たちが多くいたが、最後は山田が抜き去った。人生とは、本当に分からないものである。

 その引き金になったのが2年生秋、PL学園に敗れてからのことだった。

「最後まで全力というか、以前までの自分はどこかで妥協していた部分がありました。それじゃいけないと。この精神はプロに行っても忘れてはいけないと思います。イメージとしては坂本さん(勇人=巨人)2年目から試合に出てるじゃないですか。試合に出ることを優先してやりたい。守備位置は、いろんなポジションに回されるかもしれないけど、セカンドでもどこでも守る気でいるんで、少ないチャンスをモノにしたい」

 高校3年秋、ドラフトを前にして、山田が語っていた言葉だ。

 悔しさから日ごろの意識を高め、今、プロ野球界ではトップクラスに君臨している。

 人生には何が作用するかが分からないと同時に、意識を高く持つ大切さ、そして、日ごろをどういう気持ちで取り組むかが人生の成功に関わるか、一人のスーパースターから感じることができる。

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