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25年ぶりV、カープ投手陣の手本となった黒田博樹の原点。恩師にしたためた野球人生を象徴する言葉

10日、広島東洋カープが25年ぶりにセリーグを制した。昨年ニューヨーク・ヤンキースから広島へ復帰した黒田博樹がチームにもたらした影響は絶大だ。そんな黒田の野球人生は2つの言葉に象徴されている。

2016/09/11

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もしもセンバツに出場できていたら……

 田中は黒田が下級生の時はコーチ、最終学年の秋になった時から監督を務めることになったが、チーム結成時の黒田の扱いはやはり3番手の扱いだったという。

「溝下、西浦(元日本ハム)という二人の投手がいました。高校野球はピッチャーで決まるやないですか。だから、彼らには負担がかからないように公式戦に温存して、練習試合では黒田が投げる。黒田には『クロチャンスやぞ、結果を出せ』とはっぱを掛けましたけどね、でんかったんですよ」

 当時の黒田は、フォーム的にはバランスがよく、ストレートにキレがあった。ところが、コントロールが悪く、武器になる変化球がなかった。だから、どうしても、試合で登板させる機会としては、練習試合しかなかったのである。

 田中は続ける。

「練習試合でも結果が出なかったから、いつも、そのたびに、『ベンチ出ろ、走っとけ』といいましたね。ライトのポールからレフトのポールまで走っているのはベンチから確認できますから。ずっと走らせていました」

 ただ……と田中は、今思えばと感慨深くこう回想している。

「クロはそんな扱いに、腹が立ったと思いますけど、でもね、一度として嫌そうな顔をしたことがないんです。タフでした。どこかが痛いといったことはありませんでしたし、練習を休まず、愚痴は言わない、言い訳は絶対にしなかった。そういった人間的な部分が優れていたように思います。何事に対しても一生懸命する。授業にも僕は行きましたが、高校生の多くは表裏の顔がありますけけど、クロは変わらなかった。何事も一生懸命やる、すごく素直、そして、向上心があったと思います」

 その黒田が一度だけ、陽の目を浴びたときがあった。

 2年秋の大阪府大会をぶっち切りで優勝。センバツ切符を掛けた近畿大会でのことだ。二人の投手の調子が下降気味になってきたところ、黒田の状態が上がってきたのだ。常日頃から「クロみたいな選手は結果が一番の良薬」と考えていた田中は、準々決勝から黒田の起用を決断する。近畿大会の準々決勝の6回から登板させると、ピシャりとと抑えた。

 さらに準決勝も、先発は溝下でいったが、限界が近づくと6回くらいからまた黒田がリリーフ。これも抑えた。さらに決勝は、3回からのロングリリーフ。初めて公式戦で3試合に登板、黒田は陽の目を見たのだった。

 ところが、不運なことが起きた。チーム内の不祥事が発覚したのだった。春の甲子園出場は絶望。黒田はせっかくのチャンスをつかみ切ることができなかったのである。その後は、公式戦で少し投げただけで、夏の甲子園大阪大会も、上宮は敗退。黒田は高校野球を終えた。

「センバツに出場できていたら、クロの人生が変わっていたかもしれないですね。高校野球が終わって進路相談の時、大学で野球をするのはやめておこうかくらいまでの話になったんですけど、好きな先輩が甲南大にいてたので、そこに行こうかと。ところが、クロのお父さんが元プロ野球選手やったんでね、強いチームに行ってやれということで、専修大に行ったんです」

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