第2回WBCメンバー、オリックス・小松聖の引退会見全文。「辛いことも多かったが、夢のような時間を過ごせた」
オリックスの小松聖(34)が22日、京セラドーム大阪で引退会見を行った。小松は2007年にJR九州から社会人ドラフト希望枠でオリックスに入団。2008年にはチームトップの15勝を挙げ、クライマックスシリーズ進出に貢献。新人王を獲得した。翌2009年には第2回WBC日本代表メンバーに選出され好投している。しかし、その後は故障などもあって伸び悩んだ。10年目の今季は開幕一軍スタートを切ったものの、わずか3試合の出場で勝ち負けなし、防御率8.10の成績だった。
2016/09/22
ここ2、3年は引退を覚悟していた
【代表質問】
――引退を決意された率直なお気持ちを教えてください。
そうですね。10年間のプロ野球生活でしたが、長いようで短くて、節目に引退を決めるということにはいろんな思いもありましたけど、今はすごいスッキリした気持ちでいます。
――そのいろんな思いを教えていただけますか?
アマチュアの頃から含めていろんな人に出会い、福島という田舎から出てきた人間としてはスター選手と出会い、支えてくれたみなさんとの出会いなど、いろいろ思いだすだけで涙が出てきますけど、本当にみなさんの支えがあってここまで野球ができたと思うので、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
――いろんな人との出会いがありましたが、誰かひとりこの人と挙げるなら?一番感謝している人、伝えたい人は誰ですか?
そうですね。一番と言われるとなかなか名前が挙げづらいくらい、みんな支えになったんですけど。やっぱり野球というスポーツに最初に出会えたのが、両親と二人の兄の存在がありまして、常に一歩先を行く二人の兄は僕の最大のライバルで。そのライバルがいてこそ、今の僕があると思います。また家に帰ったら、いつも練習をサポートしてくれる父親がいて、その練習を終えるまで、食事の準備を待っててくれる母親がいました。本当に家族には感謝していますね。
――ご家族にこの話をされたときに、どんな言葉をかけられましたか?
電話だったので、面と向かって言ったわけじゃないんで、どんな表情をしてたのかわからないですけど、電話越しにはとても寂しそうな声がしましたが、本当にお疲れさんという言葉とありがとうという言葉をいただいて。でも僕から言わせると、そういう環境を与えてくれた両親、家族、娘たち、息子にも凄く感謝しています。
――「引退」という二文字が頭によぎるようになったのはいつ頃だったのでしょうか?
二軍生活が最後のほうは長かったものですから、その頃から「この試合がラスト登板だ」という気持ちで、ここ2~3年はずっとそういう気持ちでマウンドに上がっていました。
――最終的な決断の理由は?
やはり、プロ野球選手である以上は一軍の戦力にならなければ…年齢も年齢ですし、いる意味がないと思います。それに貢献できない自分がいたので、決断をしました。
――今年はプロ10年目でしたが、節目の一年だったと思います。振り返ってみていかがでしたか?
本当に大したことがない選手を、オリックス球団にドラフトで指名していただいて、10年間、野球をすることだけに専念させていただいた。環境であったり、スタッフのみなさんの手助けもあって、幸せな野球人生だったなと思います。
――野球人生の中で一番の思い出はなんでしょうか?
そうですね。オリックスの小松といえば一年しか活躍してないみたいな感じで言われますけど。その1年とWBCにも参加させていただいて、もちろんそういう良い思い出というのは、思い出の中の一つなんですけど、やはり苦しい中で、苦しい中だからこそ見えることがありました。みなさんの手助けというか励ましというか。ファンのみなさんが声をかけてくださったり、手紙をくださったり。その思いで苦しい時期を乗り切って、がんばることができたと思います。久々の一軍のマウンドでも、ファンのみなさんがマウンドに行く途中ですね。僕の名前のコールをしてくれた大きさというのは、凄く感動しましたし、感謝しています。
――良い思い出と苦しい思い出という話がありましたが、良い思い出として15勝、新人王、チーム初のCS進出、そしてWBCで日本の連覇に貢献と、誰もが達成できない、経験できないことをたくさんされたと思います。このことに関して、改めて振り返っていかがでしょうか?
当時は勢いのままやっていた部分は正直ありまして、その中で苦しい時期を乗り越えて思うことはあのとき本当に支えてくれた人がいる。そのことが一番最初に出てきますね。ただプロ野球のなかで、田舎から出てきた少年が、正直、こうやってプロの世界で躍動するというのは、僕のなかで夢ではありましたけど、現実として、夢のような時間を過ごせた気がします。
――田舎から出てきて、福島から出てきてというお話がありましたが、故郷のみなさんに向けて、がんばっている自分という存在を出してきましたか?
地元は震災もありましたし、地元のみなさんに元気と勇気を与えたいなと思いながらのプレーだったんですけど、それが現実として震災後なかなか活躍できなかったので、その一点は悔しい思いがあります。ただ、地元のみなさんは苦しんでいる部分があったと思うんですけど、苦しんでいるはずなのに、自分に励ましをくれるというのは、心に響いてましたし、なんとか一軍のマウンドで躍動してやるぞ!という思いでずっとがんばれた部分はありました。
――自身の野球生活を振り返ると、先発から中継ぎへの転向というのもありましたし、「過去の自分」と「今の自分」の闘いというのもあったのかなと想像するんですが。
僕の発想では素晴らしいピッチャーというのは、先発であろうが、中継ぎであろうが、抑えだろうが、どのポジションでもキッチリと一流の働きをすると思ってやっていました。どのポジションを与えられても、プロフェッショナルさを忘れずに野球をしたいなと思ってやっていました。
――そんななか、去年は初セーブを挙げられました。
ずっと(チームに)貢献できてなかったので、たまたま延長戦に入ってそういう場面が来たので、嬉しい半分、もう少し信頼できるピッチャーであれば、早く達成できたと思うので。悔しい気持ちもあります。初めてというのができたことは嬉しかったですね。
――オリックスのユニフォーム一筋でここまで来ました。オリックスには若いピッチャーもたくさんいます。そんなチームメイトにメッセージをお願いします。
オリックスに入った時点から、オリックスに骨を埋めるぐらいの気持ちでやってきましたので、本当に頼れる先輩方、かわいい後輩たち、大好きな同級生のみんなとこうやってオリックス一筋で、一緒にプレーできたことは本当に嬉しいです。良いチームメイトに恵まれて幸せだったと思います。
――プロでの生活で経験したことを今後はどのように生かしていこうとお考えですか。
上手くいかないことが多いと思いますし、ただ上手くいかないことに背を向けずにしっかり現実と向き合って、覚悟を持ってこれからも取り組んでいきたいと思います。
――会見の冒頭から、ファンのみなさんのおかげでという言葉がありましたが、小松投手といえば試合後のお立ち台での「キターッ」というパフォーマンスをはじめ、ファンのみなさんを喜ばせることを最も大切にしている選手の一人のように感じました。ファンのみなさんはどんな存在でしたか?
ファンのみなさんには、球場に来ていただいて嬉しい想いで帰ってもらいたいと思いました。「キターッ」もやりましたけど、やっぱりプレーで貢献してから喜んでもらいたいなと思う気持ちで、ああいうことを勝手にしてしまったんですね。でもまた「キターッ」を聞かせてくださいと言ってくれるファンの方もいらっしゃいましたし、逆に、ひとつひとつの言葉に僕が勇気づけてもらえて、ファンのみなさんには感謝しています。
――きょうも京セラドームには背番号28をつけたユニフォームを着たファンがたくさん見受けられました。小松選手をはじめオリックスファンの方にメッセージをお願いします。
先ほどから言っていますが、田舎から来た人間にとってはユニフォームを着ていただいて、僕がマウンドに立っているときに声援を送っていただける。これほどない嬉しさといいますか、プロに入って一番嬉しかったといいますか。ここまで僕を応援してくれるんだなというのを感じると、辛いときのほうが多かったですけど、自分に力を貸してくれましたね。ファンのみなさんがこんなに応援してくれなかったら10年間という生活は送れなかったと思うので、本当にありがとうございました。
――最後はご家族のみなさまだと思います。育ててくれたご両親、そしてお兄さん、いつも傍で励ましてくれた奥さん、そしてお子さんに向けて既に直接伝えられたかと思いますが、改めてメッセージをお願いします。
両親には野球という道筋をつけてくれたことを感謝しますし、誰よりも僕に対して背を向けずに一緒に闘ってくれた…ファンの一人でもある家族には本当に感謝しています。家族に対してもなかなかカッコイイお父さんを見せられなかったんですけど…(涙)、これからプレイヤーというよりも、一人の父親として、子どもたちの道筋を一緒につけてあげたいなと思います。