低迷期を支えた“伝説のスカウト”が語るカープの25年。逆指名制度で失った二岡智宏との邂逅
25年ぶりにセリーグを優勝した広島東洋カープ。かつて広島に在籍した、伝説のスカウトは今回の優勝をどのように見たのか。
2016/10/03
試合の途中で帰らないのが広島のスカウト
「前田健太の獲得に貢献した人」
広島東洋カープの関西担当だった宮本洋二郎氏は70歳まで務めたスカウト生活の晩年、こう語られることが多かった。
来る日も来る日もPL学園の練習グラウンドへ通う中で、前田の投手としての才能だけでなく、その人間性にも触れ、ますます惚れ込んでいった…。そんなベテランスカウトの心情やエピソードが前田の成長の傍らでしばしば伝えられたのだ。
その前田が日本を去った年に広島が25年ぶりのリーグ優勝を決めた。独走態勢に入ると元スカウトの下にも各メディアからの取材が続いたという。
「リーグ優勝の日は夜のニュースで見ました。スカウトの時代にもう1回優勝を味わいたかったなあ、と思いながら、でも、やっぱりうれしかったですね」
スカウト時代と変わらぬ、夏の日差しが染み込んだような真っ黒な顔がほころんだ。
宮本氏は4年前から、愛知県にある日本福祉大学野球部で「特別コーチ兼編成部長」を務めている。選手の寮代わり、大学指定のアパートに住みながら、若者と野球に囲まれながらの毎日だ。
「もう74というのにこんなことになるとはね。でも、体はきついけど若い子たちからパワーをもらってますよ。練習は子どもたちの授業の関係で夜が多いんですけど、終わった後も一緒に飯食いながら野球談議になってね。僕は一杯やりながらで、これがまた楽しい」
「広島の人」という印象が強い宮本氏だが、選抜準優勝を果たした米子東から早稲田大を経てプロ入りした先は巨人だった。在籍は2年、66年に2勝を挙げており「V9にも端っこで貢献してるんです」と、笑った。その後広島で7年、南海で1年。10年で現役生活を終えると、南海で投手コーチとなった。野村克也がプレイイングマネージャーだった時代、「ID野球のイロハを学んで、これが僕の財産になったんです」
南海で6年のコーチ業を終え、再び広島へ。古葉竹識監督の下、リリーフエース江夏豊を擁し、チームが2年連続日本一を飾った翌82年のことだ。仕事はスコアラー兼スカウト。
「チームが遠征に出る時はスコアラーとして帯同して、広島で試合の時は関西でスカウトとしてアマチュア選手を見る。あとね、チームに帯同の時は試合前にバッティング投手もやっていましたからひとり三役。これはなかなかハードでしたよ(笑)」
スカウトとしては、伝説のスカウトとして知られる故・木庭教のかばん持ちからのスタートだった。選手の見方、指導者との会話内容など、気づいた点を日々ノートに記し、蓄えていった。中では、広島のスカウトとしての姿勢も出来上がっていった。
「高校でも大学でも練習を見に行ったら最後まで見るというのが広島なんです。今もそうだと思いますけど途中で帰ることはしない。ちゃんと見ることが我々の誠意ということなんです。だから僕がやってた時も、途中で来てすぐ帰るような他球団のスカウトがいると顔では「お疲れさん!」とにこにこやりながら、腹の中では<なにしにきたんや>って思ってましたよ(笑)」
スカウト活動を続ける中で観察眼も鍛えられていく。他球団の中には「カープのスカウトが行くところに行け」という教えも生まれたという。