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2度の指名も入団を断った江川卓。過去に「ドラ1」指名を拒否した選手【広尾晃の「ネタになる記録ばなし」】

ブログ「野球の記録で話したい」を運営中で『プロ野球解説者を解説する』(イーストプレス刊)の著者でもある広尾晃氏。当WEBサイトでは、MLBとNPBの記録をテーマに、週2回、野球ファンがいつもと違う視点で野球を楽しめるコラムを提供していく。今回は、過去にドラフト1位指名されるも拒否をした選手の話だ。

2016/10/15

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江川はドラ1指名を2度拒否

 NPBのドラフト制度が施行されて今年で51年。
 現在、高校・大学・社会人の日本人選手がプロ野球に入るには、ドラフトで指名される以外にルートはない。
 プロ野球を夢見る者たちにとって、ドラフトで指名されることこそが「第一歩」になっている。
 なかでもドラフト1位で指名される「ドラ1」は、最高の栄誉とされるが、過去には「ドラ1」で指名されたにもかかわらず入団しなかったケースが27例ある。

ドラフト1位指名も拒否

 最初の入団拒否はドラフト施行1年目の河本和昭、広陵高校時代は超高校級と騒がれたが、国鉄スワローズの指名を断った。

 ドラフト制度が始まった初期には、まだその意味が社会に周知されておらず、スカウトなどの根回しも不十分だったために、指名されても断る選手がかなりいた。
 特に60年代、パリーグはセに人気で大きく水をあけられていたために、1位指名でも入団を拒否する例が多かった。
 67年の慶應のエース・藤原真はセの球団を希望して南海の指名を拒否、藤原は社会人チームの全鐘紡に進んだのちにサンケイスワローズに1位指名され入団した。
 同年の早稲田のエース三輪田勝利もパの近鉄の指名を拒否し、大昭和製紙に進んだが、69年ドラフト会議で阪急に指名されて入団している。

 73年には愛知学院大の小林秀一が巨人のドラ1指名を拒否した。これは巨人唯一の例。熊谷組への入社が決まっていたため、小林はプロ入りしなかった。のちに愛知学院大の監督になっている。
 さらに同じ年、甲子園をわかせた作新学院の江川卓も阪急の1位指名を蹴って法政大に進んだ。

 77年、その江川は再びクラウンからドラフト1位で指名されたが、再び拒否。「ドラ1」を2度蹴ったのは江川卓だけだ。

 江川はアメリカに野球留学し、翌年のドラフト前日に巨人と契約した。いわゆる「空白の1日」だが、これはコミッショナーが認めなかった。翌日のドラフト会議は巨人が欠席する中で行われ、阪神がドラフト1位で指名権を得た。しかし当時の金子鋭コミッショナーの裁定で、阪神から巨人にトレードされることになった。トレードの相手は巨人のエース小林繁。これは「江川事件」として、大いに世間を騒がせた。

 89年、上宮高校の元木大介は「巨人以外はいかない」と福岡ダイエーホークスの指名を断り、ハワイに野球留学。翌年、巨人に1位指名されて入団している。

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