辻内崇伸、ドラフト1位の肖像――「大阪桐蔭に入学した時、僕は平民以下の存在だった」|第1回
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。(2016年10月20日配信分、再掲載)
2020/04/06
下から二番目の力しかないと考えていた
野球部の1学年は約20人。
「授業が終わったら着替えて、ダッシュでバスに荷物を詰め込む。そこから5キロぐらいの山道を走ってグラウンドに行く。すると(バスに乗った)先輩たちはキャッチボールをしているんです。ぼくたちは(グラウンドの外にある)砂利道でキャッチボール。トスバッティングも砂利道です。それが終わったら草むしり。グラウンドの中に入れるのは、最後のグラウンド整備だけでした」
その後も1年生は先輩の練習につき合わなければならない。
「先輩のティー(バッティング)を上げて……練習が終わるのが夜の11時半とか12時。それから先輩のユニフォームを洗って寝るのは2時とか2時半とか。1年生、2年生、3年生って、寮の部屋は別々なんです。そこだけはホンマに幸せでした」
辻内が、グラウンドで練習できるようになったのは、夏の大会が終わり、3年生が引退した後からだった。
「まずはランニングで1、2(と声を出して足を合わせること)から始まるんです。そこまでは練習は全然やっていないです」
能力の高い選手が集められた大阪桐蔭では、この段階でもまだ、辻内は全く期待された選手ではなかったという。
辻内によると、2年生に7人、同じ1年生にも6、7人の投手がいた。辻内は自分で、下から二番目の力しかないと考えていた――。