辻内崇伸、ドラフト1位の肖像――「大阪桐蔭に入学した時、僕は平民以下の存在だった」|第1回
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。(2016年10月20日配信分、再掲載)
2020/04/06
中学生から本格的に投手へ
中学校では野球部ではなく、硬球を使用するリトルシニアリーグの「郡山シニア」に入った。最初はやはり四番ファーストだった。
「中1の後半ぐらいですかね。お前、左(投げ)やし、でかいし、いけるやろと。ピッチャーがいなかったんです。そっからピッチャー一本ですね。でも大したピッチャーじゃなかったです。(球速が)105キロとか108キロとか、普通のピッチャーでした」
若干、球速が伸びたのは中学2年のときだった。
「中1で肘を壊して、半年ぐらいボールを投げられなかったんです。陸上部に入って走ったりしていましたね。治ったその日に投げたボールが115キロぐらい出たんです。10キロぐらい、ばっと(球速が)上がった。そこから普通よりもちょっと上ぐらいの速さ(のピッチャー)になって。高校入る前には128キロぐらい出るようになってました」
でも、普通のピッチャーでしたよ、と控えめな表情で付け加えた。
高校で大阪桐蔭を選んだのは、所属する郡山シニアから何人か進むという話になっていたからだ。あくまでも辻内を欲しいと指名されたのではなく、ひと山幾らでザルに載せられていたのだ。
そんな大阪桐蔭で〝平民以下〟の存在だった、辻内が変化の兆しを見せたのは、高校1年生の秋のことだった――。
【プロフィール】
辻内崇伸(つじうち・たかのぶ)
大阪桐蔭高校3年時、夏の甲子園1回戦の春日部共栄戦で152km/hをマーク。一気に注目を浴びる。2回戦の藤代戦では当時の大会タイ記録となる19奪三振を記録。同校をベスト4へ導く原動力に。05年の高校生ドラフト会議では読売ジャイアンツとオリックス・バファローズとの競合の末巨人が指名権を獲得し、1巡目指名で入団。しかし、プロ入団後は度重なる故障に悩まされ、結局06年から引退する13年まで一軍公式戦出場はなかった。引退後、2014年より日本女子プロ野球機構(JWBL)の埼玉アストライアのコーチ、2016年からはレイアのコーチを務める。
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