辻内崇伸、ドラフト1位の肖像――「ジャイアンツに行きたいというよりも、関西から出たかった」|第3回
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。(2016年10月26日配信分、再掲載)
2020/04/08
まさかの勘違い
場内にアナウンスが流れた。
ドラフト会議が始まる前、辻内には何種類かの原稿が渡されていたという。その中にはオリックスが交渉権を獲得したときのものもあった。
「イチローさんもいた素晴らしい球団とか、そのようなことが書かれていました。ぼくが考えた文章じゃないです。誰かが用意してくれていたんだと思います」
しかし、これは間違いだった。
抽選用紙には朱色のコミッショナー印が押してあり、当たりくじには左側に「交渉権獲得」と書かれていた。抽選が3年ぶりだということもあっただろう、バファローズの中村は、コミッショナー印を、当たりくじだと勘違いしたのだ。
大阪桐蔭の部屋では辻内の写真撮影が始まっていた。そんなとき、モニター画面に「辻内巨人」の文字が流れた。辻内は、一瞬、何が起こったのか分からないような顔になった。そしてジャイアンツが交渉権を獲得したことが分かると、表情がぱっと明るくなった。
「ジャイアンツ(が交渉権を獲得したとき用)のカンペもあったんです。でも、全部ぶっ飛びました。もう笑っていましたね」
満面の笑みで辻内はこう言っている。
――小さなころから巨人ファンなのでうれしい。
このとき、辻内は、読売ジャイアンツからドラフト1位に指名されることの大変さをまだ理解していなかった。
【プロフィール】
辻内崇伸(つじうち・たかのぶ)
大阪桐蔭高校3年時、夏の甲子園1回戦の春日部共栄戦で152km/hをマーク。一気に注目を浴びる。2回戦の藤代戦では当時の大会タイ記録となる19奪三振を記録。同校をベスト4へ導く原動力に。05年の高校生ドラフト会議では読売ジャイアンツとオリックス・バファローズとの競合の末巨人が指名権を獲得し、1巡目指名で入団。しかし、プロ入団後は度重なる故障に悩まされ、結局06年から引退する13年まで一軍公式戦出場はなかった。引退後、2014年より日本女子プロ野球機構(JWBL)の埼玉アストライアのコーチ、2016年からはレイアのコーチを務める。
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