的場寛一、ドラフト1位の肖像#1――忘れられない、阪神入団を決めた時の父の一言
1999年ドラフト1位(逆指名)で阪神タイガースに入団した的場寛一は、将来を嘱望される期待の大型遊撃手だった。しかしプロ入りの野球人生は試練の連続だった。(2016年12月1日配信分、再掲載)
2020/04/11
田崎健太
成長の歯車が噛み合った瞬間
「どこでバチッと歯車が合うかは分からない。人の成長はちょっとした一言や、出会いで変わってしまうんです」
書籍『ドライチ ドラフト1位の肖像』
的場寛一は自分に言い聞かせるような口調で言った。
的場は77年、兵庫県尼崎市で生まれた。小学生からボーイズリーグの『兵庫尼崎』で野球を始めている。ボーイズリーグは小、中学生を対象とした硬式野球リーグである。その後、愛知県の弥富高校、九州共立大学に進んだ。
そして、1999年のドラフト会議で阪神タイガース1位で入団。
「小学生のときは、そこそこ(野球が)出来ていたから、(将来は)プロ行けるんちゃうかなって思っていました。でも中学校に行くと、周りは大きいのばっかり。中学校の途中から大きくなっておいついた感じですかね。高校は普通の選手でした。ぼくが伸びたのは大学ですね。練習メニューは自主性に任せていて、短所を直すというより長所を伸ばすというチームだったんですよ」
成長の〝歯車〟が噛み合ったのは、大学2年生のときだった。兵庫尼崎の先輩からこう言われたという。
――お前、将来どうしたいんや? 正直な気持ち言うてみ。恥ずかしがらんでええねん。
プロ野球選手になりたいと答えた的場に、その先輩は「その目標に向かって、逆算してみろ、プロ野球選手になるためには、どうすればいいのか考えろ」と言った。
「(プロから指名されるには)大学時代に首位打者とかのタイトルを獲って、全日本に選ばれる。それにはどんな練習をしたらええのか。そんなことをノートに書いていって、(課題を)クリアして行ったんです」
98年、大学3年のとき福岡六大学野球の春のリーグ戦で首位打者、そしてIBAFワールドカップ日本代表に選出された。このときのチームメイトには、二岡智宏、上原浩治らがいる。特に記憶に残っているのは、1学年下の阿部慎之助だった。
「昔から、こいつは(モノが)ちゃうなっていうのはありましたよ。性格も明るいし、プロ向きやと思ってみてました」
的場もまた、俊足巧打の遊撃手として99年度ドラフトの目玉選手の一人として名前が挙がるようになった。