山田哲人はなぜスターダムにのし上がったのか#2――左右の本塁打王を育てた恩師の教え
2年連続トリプルスリーを達成し、あっという間に球界を代表するスター選手へ駆け上がった山田哲人。きっかけは高校時代にある。
2016/11/28
技術の基本はすべて高校時代
意欲を身に付けた人間の成長スピードは驚くほどに早い。
だがしかし、意欲を持っただけで人が成長するわけではない。
山田哲人の成長を促したのは彼がいた環境に他ならなかった。どれだけ、人が性格的に変わったとしても、その場に環境がなければ育たないものだ。
2014年9月、山田がセリーグの最多安打のタイトルを狙っていた頃、試合前の練習を見ていると黙々と右方向へ打ち込んでいる彼の姿に目を奪われた。
その練習後、技術面について尋ねると、山田がこう返してきたのである。
「バッティングは感覚的なものなので、よくわからないんですけど、技術の基本は高校時代に身に付けたものばかりですね。プロでは応用を学ぶ感じで、高校の時にたくさんのメニューをやって振ったのが今に繋がっています」
山田にとって履正社高で学んだ3年間は大きかった。
大阪では今や大阪桐蔭との“2強”を形成している履正社は1922年に野球部が創部した。もともと福島商という名の歴史の古い学校だが、1983年に校名を改称。進学校の道へ突き進むようになった。その4年後に赴任してきたのが岡田龍生現監督である。
とはいえ、岡田監督の就任時から甲子園を狙うための野球部という位置づけではなかった。今でこそ茨木市に専用グラウンドを構えているが、当時は学内のグラウンドを所狭しと他クラブと共用で限られた日に練習するだけだった
だから、当時は勝利への確率を求めるため、守備とバントに重きを置いてチーム作りを進めていた。それでも、97年に甲子園初出場を果たしている。
チームが大きな変革を迎えたのは01年にグラウンドを持つようになってからだ。その後は、今年の夏も含め、春・夏9度の甲子園出場。2014年春のセンバツでは準優勝を果たしている。
専用グラウンドを保有するようになってから変わったのはバッティングに掛ける時間が多くなったことである。岡田監督独自の理論を作り出し、それを伝えていった。そのはじめのころ選手がT‐岡田(オリックス)であり、土井健大(元オリックス)、山田、坂本誠志郎(阪神)などである。セパの本塁打王を出したのは、過去の歴史では履正社だけだというから、その指導力は推して知るべしだ。
岡田監督は、プロに行けるか、いけないかの境目は、その成長過程で見えてくるとこう語る。
「僕は右バッターはレフト、左バッターはライトにホームランが打てるというところから、段々、逆方向にホームランを打てるようになっていったときに、プロに行ける可能性が見えてくると思っていますね。T-岡田にしても、山田にしても、それは共通しています」
とはいえ、一言で「逆方向」といっても、そう簡単に打つことが出来るようになるわけではない。そのアプローチが大事なのだ。