的場寛一、ドラフト1位の肖像#4――「ぼくは出過ぎた杭になれなかった。実力がなかった」
1999年ドラフト1位(逆指名)で阪神タイガースに入団した的場寛一は、将来を嘱望される期待の大型遊撃手だった。しかしプロ入りの野球人生は試練の連続だった。(2016年12月4日配信分、再掲載)
2020/04/14
田崎健太
胸に響いた、下柳剛からの一言
「(入団したときの)野村(克也)監督はそういうことを言っていたんかなと思うこともありますよ。肩を脱臼してクビになったけど、元気やったら客観的に野球を見られるプレーヤーになっていたでしょうし、また違う野球を楽しめたんかなと思うことがありますよ」
かつての自分にアドバイスできるとすれば、どんな言葉を掛けるかと訊ねてみた。
「目先の結果に一喜一憂するなということですかね。バッターは打っても所詮3割。7割は駄目なわけです。悪いときでも諦めず粘ること。100点か0点じゃなくて、悪いときでも50点を取れるようにする。するといい時には100点が120点になる」
的場が戦力外通告を受けるきっかけになったのは、2005年3月に自分のふがいなさに苛立ち、グローブを叩きつけて肩を脱臼したからだ。その後、鳴尾浜のグラウンドでリハビリしていたとき、居合わせた下柳剛からこう言われたという。
――もうちょっとプロになれよ。
「下柳さんの言葉が凄く響きましたね。あの人は一線で何十年もやってきている。一喜一憂するのはプロじゃない。一喜一憂しているから、グラブを投げつけてしまうんです。それに気がつくのが少し遅かった。ただ、トヨタ自動車に入ってからは、その経験が生きた。アマチュアの選手って一喜一憂するんです。ぼくは目の前の結果よりも波を作らないことを意識していました」