「和製大砲」を苦しめた一発の残像。元ロッテ・大松尚逸が語る試行錯誤の12年【前編】
昨年10月に、千葉ロッテから戦力外を通告された大松。千葉ロッテでの12年間で、身体的な悩みを抱えることもあった。その苦悩を2回にわたってお伝えしていく。今回は前編だ。
2017/01/21
一発を求められ「力強さを求めすぎた」
東海大学から04年のドラフト5巡目で千葉ロッテに入団。当時の監督はボビー・バレンタイン氏だった。
「打撃を買われてプロに入って来ているのだから、まずは好きに打てという指導でした。自分が良いと思っているやり方を大いに生かしてくれって感じで、技術的なことは全くいじられることなく、『おう、いいじゃないか』って感じで見ていましたね。わりと自由度も高かったと思います」
同期入団には社会人野球の三菱自動車岡崎から入った2歳年上の竹原直隆がいた。二人がキャリアをスタートした05年は1、2軍ともに千葉ロッテが日本一になった年である。大松と竹原は、将来のクリーンナップ候補として共に2軍で好成績をあげた。
「竹原さんは社会人から入ってきた方でしたし、一方で自分は最初(1年目)のキャンプは、どうやって過ごしたらいいか分からないような大学生レベルの考えでしたから、色々とお世話になりましたね。ボビーが監督だったときは、そんなに練習時間も長くなかった。昼の2時には全体が終わって、3時にはグラウンドに誰もいない状態。そうなると社会人のキャンプをやってきた竹原さんなんかは『一日これくらいバットを振っておかないとシーズン通して活躍するのは厳しいよな』と言って、一緒に練習しようと誘ってくれたりしたんです。それこそ夕方の5時~6時くらいまで鴨池の室内練習場で練習していましたね。それと当時は夜間練習もあったんで、いったん6時にホテルへ帰って来て、夕食を食べたら、練習場に戻ってまた練習。1年目はそんなことばかりやっていましたね。それが今になって振り返るとよかったのかなって思います」
先に頭角を現したのは、大松の方だった。
きっかけは05年に李承燁(イ・スンヨプ)の担当コーチとして来日した金星根(キム・ソングン)との出会い。
プロ2年目となる06年。4月15日の対西武ライオンズ戦から1軍に昇格すると、さっそくその日からスタメン出場を果たし、西武・西口文也から放ったプロ初ホームランは逆転満塁のおまけ付きとなった。
「当時はマリンの試合が終わってから夜中の23時か0時頃までですかね。金星根さんと毎日、同じコースばかりティー打撃していました。そういうことを若いときはずっとしていたので、オフに入ったら浦和でミニ合宿をしたりしてね。そこで練習の大切さだったりを学びましたね。やっぱりやらないと分からないことって沢山あるんですよ。成果として、たまたまそのコースに来た球に自然と体が反応出来たというか、そういうホームランが多々ありましたね。プロに入って打った最初のホームランもそうだし、06年~07年に打ったホームランもほとんどそうだと思います」
06年、07年と1軍での出場機会を徐々に増やしていった大松は、08年にはついに1軍に定着。プロ初の規定打席到達も果たし、24本塁打、91打点を記録した。
しかし、皮肉なことにこのホームランの印象が、後の大松の打撃に少なからず影響を与えることになる。
周囲からはより「一発」を求められるようになり、自身もそれに必死に応えようと試行錯誤した。その結果、スイング時の身体の動きがどんどんと大きくなり、バッティングフォームにもブレが生じるようになってきた。
「ああ……。ないと言ったら嘘になりますけど、ブレねえ……。より力強さを求め過ぎたのはありましたね。昔ならそんなこともなかったんですけど、周りが求めるものと自分でも大きいのを打たなきゃいけないというところで、体を振ってみたりとか、力感を求めるようになったのは間違いなかったです。力感を求めるようになると、それだけブレも大きくなるし、自分で振っている感はあっても、そこで振り過ぎというね、それがなかなかアジャスト出来なくて、せっかくの甘いボールを打ち損じたりね。当然、確率も悪くなる。それが一番かなって思います」
それでも‶和製大砲″としてチーム、そしてファンのニーズに応えてきた大松。
そんな彼にとって、2010年は彼の野球人生を振り返る意味でも忘れられないシーズンとなった。
(後編に続く)