元巨人・クロマティへ抱いた選手の不信感――「グラウンドに出ると人が変わる。野球を知らない監督」【『サムライ・ベアーズ』の戦い#2】
皆さんは、かつて巨人で活躍したクロマティ氏が、アメリカの独立リーグで日本人だけのチームの指揮官として戦っていたことをご存じだろうか。そのチームは『ジャパン・サムライ・ベアーズ』と名づけられた。
2017/01/19
阿佐智
一流のプレーヤーだが指揮官としては……
2005年、アメリカの独立リーグに日本人だけのチーム『ジャパン・サムライ・ベアーズ』が発足することになった。その際、数回にわたって日本で行われたトライアウトのいくつかにもウォーレン・クロマティ自身、足を運んだという。しかし、実際に集まった選手の多くが、正直アメリカのプロリーグで戦えるようなレベルではなかったことは当時の関係者の多くが証言している。
このチームのスカウティングが始まったのは、チーム発足前年の2004年秋も終わりに近づいてからのことであった。すでに日本のプロ野球のドラフトは終わり、有望な選手は進学や実業団への就職などを決めていた。さらに、この年には日本でも独立リーグのスタートが決まり、夢をあきらめきれない「プロまであと一歩」の若者の多くはそこに最後の望みを託すことを決めていた。
陣容がようやく整ったのは、開幕をひと月後に控えた2005年4月終わりのことだという。東京に集まり練習をして最後のふるいかけをして何人かを削ったあと、一行はクロマティの待つアリゾナへ旅立った。チームの戦力が満足のいくものではないことはクロマティもうすうす感じてはいただろうが、スタートは悪くなかった。選手の多くにとって目の前の監督は、幼いころの憧れであったし、新監督自身も指導者としてのキャリアのスタートに希望を抱いていた。それに、「あの元助っ人メジャーリーガーが率いる日本人チームがアメリカ球界に殴り込み」という格好のネタに連日飛びついてくる日本のメディアに、生来のショーマンだったクロマティは上機嫌になった。
しかし、現実はやはり甘くなかった。最初の15試合で2勝13敗と全く勝てない状況が続くと、気分屋の堪忍袋の緒は完全に切れてしまった。やがて試合中のベンチにはクロマティの暴言が響き渡ることになる。指導者として第一歩を踏み出したクロマティと選手との間に溝ができるのには時間はかからなかった。プロ未満の技能の選手たちを、元メジャーリーガーが理解することは不可能だったようだ。
「あんな監督いるわけないって感じでしたね」
長坂秀樹は、当時の指揮官をこう振り返る。彼は、開幕直後から低迷していたサムライ・ベアーズのカンフル剤として、別の独立リーグから引き抜かれてきた「プロ選手」だった。日本では、甲子園に出場し、大学でも神宮のマウンドに立ちスカウトも注目の「プロ予備軍」であったが、彼もまたサムライの他のメンバーと同じく野球のエリートコースから足を踏み外している。
ただし、そもそもそのエリートコースのレールにさえ乗ったことのない他の多くのメンバーと違うのは、アマチュア球界のトップレベルには確かにいたことと、独立リーグではあるが、アメリカのプロリーグですでにプレーした経験をもっていたことだった。
「監督としてのクロマティを理解できる部分は、今でもまったくないですね。そもそも、野球を全然知らないって言うか……」
日米のトップレベルで長年プレーしていた人間が、「野球を知らない」ことはないのだろうが、チームを勝利に導くための戦略やベンチワークについて無知だったということだろうか。
確かに日本でプレーしていたときも、こと打席での投手との駆け引きについてはクレバーだっただろうが、試合全体での自分の役割を考えてプレーしていたようには思えない。1987年の読売ジャイアンツと西武ライオンズの日本シリーズで、彼の前に飛んでいったセンター前ヒットで1塁ランナーが長躯ホームインしたシーンなどは、クロマティというプレーヤーを象徴している。ライオンズは、集中力にムラのある彼が時折みせる緩慢な守備をあらかじめ研究していたのだ。
長坂は、当時を思い出しながら半ばあきれたように笑い、いくつかのエピソードを披露してくれた。
「2アウトからタッチアップしろとか怒鳴るんですよ」