クロマティ監督の采配以前の根本的な問題――「チーム自体がプロレベルではなかった」【『サムライ・ベアーズ』の戦い#3】
皆さんは、かつて巨人で活躍したクロマティが、アメリカの独立リーグで日本人だけのチームの指揮官として戦っていたことをご存じだろうか。そのチームは『ジャパン・サムライ・ベアーズ』と名づけられた。
2017/01/20
阿佐智
1年間のブランクを越えてチームに参加した理由
開幕後の悲惨とも言える状況を目の当たりにして、シーズン途中にチームを「プロ」レベルにすべく補強に奔走したのは、マイナーでのプレー経験があり、チームで中心的な役割を果たしていた南容道と根鈴雄次であった。
ロースターに枠がある以上、戦力の補充は、チーム内の誰かのクビを切ることを意味する。しかし、それはプロである以上仕方のないことであった。その現実を分かっていた南は、「粛清」を冷静な目で見ていた。彼はチーム立ち上げの段階から選手集めに携わっていた。
「あの態度も、クビも、ある程度は仕方なかったと思います。やっぱりチーム自体がプロレベルではありませんでしたから」
とは言うものの、南自身も、憧れのプレーヤーの虚像と現実とのギャップには驚かされた。
彼は、ボストン・レッドソックスのマイナーでプレーした後、夢を捨てきれずトライアウトを毎年のように受けたがそれもあと一歩のところでかなわず、27歳を迎えて会社員の道を歩み始めていた。そこに、出身大学の大先輩・江本孟紀を通してサムライ(・ベアーズ)から声がかかった。一旦引退を決めたこともあり、決して気の進む話ではなかったが、大先輩からの話だけに、むげに断れなかった。
「当時すでに1年間くらいプレーしてなかったんです。だから、プレーヤーとして力になれないって断ったんです。でも、人がいなし、とにかく来いって言われたんでね。それにすでに決まっているメンバーには、大学時代一緒にやっていた先輩の根鈴さんの名前もありましたから」
それら諸事情に加えて、迷っていた南を野球に引き戻した大きな理由の一つが、クロマティというビッグネームだった。
南が生まれたのは、1978年。小学校に入学したとき、ブラウン管に映っていたのがクロマティだった。当時並び立つものがなかった人気チームにやってきた「現役メジャーリーガー」は、グラブを手にボールを握りはじめた少年にとってのあこがれ以外の何物でもなかった。
「クロマティ監督って聞いて面白そうだなって」
それに、と南は続けた。
「ちょうどと言ってはなんですが、就職した会社が倒産したところでしたから」