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前田幸長、ドラフト1位の肖像#3――本当は西武が指名予定だった……ドラフト前に大学進学を口にした理由

1988年ドラフト1位で当時のロッテオリオンズに入団した前田幸長。その後、千葉ロッテマリーンズ、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツを経て、最後にはアメリカへ渡り3Aでもプレーをした。プロ野球の中では細身ながらも、独特のカーブとナックルボールを決め球に存在感を発揮した。(2017年2月17日配信分、再掲載)

2020/04/17

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田崎健太



根本陸夫氏と父親が交わした約束

 甲子園での活躍は、前田をプロ野球団から注目される存在へと押し上げた。
 
「12球団全てのスカウトの方が監督と親父へ挨拶に来られたはずですよ。正直、ぼくは12球団どこでも良かったんです」
 
 甲子園のスター、しかも貴重な左腕。楽天的で強気な性格――ドラフトをかいくぐって、確実に獲得しようとする球団が出て来るのは当然のことだったろう。
 
 ある日、前田は父親の助司からこう言われたという。
 
――お前は西武から6位指名される。他の球団から指名されないために、大学に行くと言いなさい。
 
 裏工作である。
 
「寝業師と言われていた西武の根本陸夫さんが、人を挟んで、うちの親父とやりとりをしていたらしくて」
 
 1926年生まれの根本は、法政大学から実業団の川崎コロンビアを経て、近鉄パールスに入団した捕手だった。彼がその名を知られるようになったのは、現役引退後のことだ。チーム編成に辣腕を振るい、弱小チームだった広島東洋カープを強化、続いて西武ライオンズの黄金期を築いていた。
 
 根本は大学時代から安藤組の安藤昇などと交友があるとされていた。その話が頷けるような、落ち着いた、そして凄みのある雰囲気を漂わせていた男だった。そして人たらしでもあった。前田の父は根本にすっかり心酔していたのだ。
 
「母親は親父に右にならえ、で親父に従えと。兄貴はぼくの味方でした。こいつがどこでもいいと言っているんだから、好きにさせてやれよって。家族の中でバチバチしていました」
 
 前田はまず6位ということが気に入らなかった。
 
「1位じゃないと嫌だというと、今度は2位で行くと言われたんです。ぼくは調子に乗っていましたから、2位でも嫌だと。それで1位で行くと聞かされました」
 
 そして前田は「自分は進学する」「プロには行かない」と口にするようになった。
 大学進学という体裁を取り繕うため、前田は関西の私立大学のセレクションを受けている。
 
 しかし――。
 
「ぼくは練習を見るだけのつもりだったんです。行く気はさらさらないですから。カモフラージュです。ぼくと同じような選手が4、5人いました。そうしたら何か知らないんですけれど、ペーパーテストが始まったんです。全く聞いていなかった。1時間目は英語です。いちおう名前は書きました。やろうという気がなかったわけではないんですが、全く理解できない」
 
 前田はむっとした表情を作って試験時間中、腕組みをしたまま座っていたという。そして1時間目が終わると、前田は教室を出て、駅に向かった。
 
「落ちたと思うじゃないですか? そうしたら、もう1回来いという連絡が入ったんです。俺はもういい、行かないと返事しました」
 
 そして、前田はドラフトの日を迎えることになる――。
 
 
前田幸長、ドラフト1位の肖像#4――笑顔なき記者会見「なんでロッテなんだ、西武は何をやっているんだ」

 
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