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大越基、ドラフト1位の肖像#2――困惑のドラ1指名。「プロ野球選手だったという感覚は全くない」

かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。(2017年6月3日配信分、再掲載)

2020/05/03

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田崎健太



教え子たちへ伝える、プロの厳しさ

 努力の甲斐あって、99年から一軍に定着した。
――高校卒業して野手として入っていたら、完璧なショートとして育てられた。守備だけで〝億〟を取れる選手になったよ。
 
 定岡がこう嘆息したことを大越は今もよく覚えている。
 もちろん、投手としてドラフト1位で入団した大越にはその選択はそもそも許されなかった。甲子園準優勝投手という誇りもあった。
 
 大越は〝代走〟〝守備固め〟など一軍の脇役としての役割をこなし、2003年に引退。その後、高校教師を目指して、東亜大学に編入し教員免許を取得した。そして2007年に山口県下関市の早鞆高校に保健体育の教員として赴任、野球部の監督となっている。2012年春、大越は監督として久しぶりに甲子園の土を踏んでいる。
 
 教え子の中にはプロに入りたいという選手もいる。
 プロ野球で生き残るにはよほどの力が必要だと大越は考えている。

「秋山(幸二)さんを初めて見たとき、スーパーサイヤ人だと思ったんですよ。何やらせても抜きんでていた。ぼくが会ったときは選手生活としては終盤の時期でした。若いときはどんだけ凄かったんだろうと。小久保(裕紀)にしろ、井口(資仁)にしろ、城島(健司)、松中(信彦)にしても、生まれつきの体力が尋常じゃない。あそこに行って10年以上できる子じゃないと薦められない。行くときは華やかだけれど辞めるときはあっさり。その後の人生のほうが長いし」
 
 今、自分が元プロ野球選手だったという感覚が全くないんです。現役の選手と会うと、凄い人たちだと素直に尊敬してしまうんですと、大越は楽しそうに笑った。それは高校生と向き合っている教諭の顔だった。
【つづきは書籍で】

 

 
 
大越基(おおこし・もとい)
仙台育英高校3年時、エースとして春のセンバツに出場。同年、夏の甲子園では決勝戦で帝京高に敗れて準優勝。プロの誘いを断り早稲田大学へ進学するも中退、その後はアメリカで野球を続けた。92年ドラフト1位でダイエーホークスから1位指名を受けて入団。プロ入団後は投手としては結果が出ず、野手へ転向。99年には貴重な代走、守備要員として活躍。ダイエー初の日本一に貢献した。03年に現役引退。教員免許取得後に、07年に早鞆高校に保健体育の教員として着任。09年9月に野球部監督に就任。2012年春のセンバツで同校を甲子園出場に導く。

 
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