多田野数人、ドラフト1位の肖像#2――日本人2人目の快挙を達成。アメリカで生き残れた起死回生の球種
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。
2017/07/14
田崎健太
メジャー昇格も厳しさを痛感
2年目の2004年4月24日、多田野はメジャーリーグに昇格、シカゴ・ホワイトソックス戦で2番手投手としてマウンドに登った。
「ライトがすごく明るい。明かりが本当に眩しいんですよ。どう表現していいんでしょうか、スターになった気分でした」
プロ野球を経由しない日本人メジャーリーガーは、マック鈴木に続く2人目だった。
メジャーリーグには特徴のある打者が沢山いたのだと多田野は振り返る。
「例えば、(ブラディミール・)ゲレーロ。腕が長くて、アウトコースの完全なボール球を投げているのに引っ張れてしまう。当時、ぼくの球速は150キロほどでした。向こうはマウンドが固いので日本よりも球速が出るんです。その150キロのツーシームを簡単に打たれたんです。ポーンとリストを使っただけで、自分の最高のボールを引っ張られた。打たれた瞬間、笑うしかありませんでした」
その他、ニューヨーク・ヤンキースのアレックス・ロドリゲスも多田野の印象に残っている。
「追い込んでフォークを投げるんですけれど、片手でファールにするんです。ワンバンするぐらいのボールを簡単に三塁側にファール。子ども扱いされているような気になりましたね」
そのとき、多田野は投げる球がなくなり、超スローボールを投げることにした。さすがのA・ロッドもこの山なりの球には戸惑ったのか、三塁ゴロに打ち取ることができた。
「とにかく毎日、球場に行くのが楽しかった。わくわくしていましたね」
しかし、結果を残せなければ契約を切られるのが、アメリカである。2006年4月にインディアンスから契約解除。その後、オークランド・アスレチックスとマイナー契約を交わし、再びマイナーリーグで登板していた。そんなとき、北海道日本ハムから日本でプレーしないかと声を掛けられた。多田野も日本のプロ野球で一度やってみたいと思うようになっていた。
そして、2007年11月に行われたドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから一巡目指名を受けた。
多田野数人、ドラフト1位の肖像#3――日本ハム1年目の骨折で余儀なくされた軟投派への転向
多田野 数人(ただの かずひと)
1980年4月25日、東京都出身。八千代松陰高校3年の夏に甲子園出場。立教大学時代には松坂世代の1人として注目を集めた。大学卒業後はクリーブランド・インディアンスとマイナー契約。2004年4月にメジャー昇格を果たすと同年7月2日、メジャー初先発・初勝利を挙げた(日本のプロ球界を経ずにメジャーに昇格したのは日本人選手で2人目)。その後、2006年にアスレチックスとマイナー契約。2007年ドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから1巡目指名を受けて入団、先発・中継ぎとして在籍7年間で18勝をマーク。現在は、BCリーグの石川ミリオンスターズで選手兼任コーチを務める。
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