多田野数人、ドラフト1位の肖像#3――日本ハム1年目の骨折で余儀なくされた軟投派への転向
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。
2017/07/15
田崎健太
骨折が投球スタイルに大きく影響
原因はシーズン前の怪我だった。1月6日、自主トレーニング中に左手首を骨折していた。
「ランニングをしていて、駐車場のところにあったチェーンに脚が引っかかってしまって転んだんです。そのときに左手をついてしまい骨折。破片状になった骨を手術でくっつけたんです」
リハビリを経て2月末に二軍に合流、4月25日に二軍戦に登板している。一軍の投手が不足し、急遽一軍登録、初登板となったのだ。
「ピッチャーって利き腕はもちろんですが、反対の手もすごく大事なんです。投げるときにグラブを(脇に)ぎゅっと巻きこむ。それが全然できない」
手術後、左手首は自由に動かなくなっていた。今も買い物をして釣りを貰うとき左の掌で受け取ると、小銭が下にばらばらと音を立てて落ちる程だという。
「手首をうまく使えないから、ふわっとした感じで(グラブを)巻きこむしかない。そうなると球速が落ちる。だいたい10キロぐらいは遅くなりました」
球威を売りにする投手が、コースを投げ分けて交わす、いわゆる軟投派への転向は難しいとされている。年齢を積み重ねるうちに、投球スタイルを変えていく場合もあるが、多田野の場合は突然、球速減を受け入れざるを得なくなったのだ。そして、ドラフト1位投手という視線の重みもあったろう。
ただ、多田野は周囲の目は気にならなかったと言う。
「直接、ぼくの耳には入ってこなかったです。目の前の打者をどう抑えるか。150キロを投げて打たれるよりも、140キロで抑えるほうが全然いいですしね」
1年目の多田野は7勝7敗という成績を残した。ただし、これが彼の最高の成績となった。
翌2009年シーズンは5勝5敗で、二軍落ちも経験した。そして2010年シーズン終了後に戦力外通行を受けた。トライアウトを受験。ファイターズと再契約を結んでいる。
二度目の戦力外通告は2014年のことだった。
「34歳で、年も年だし、次のステップに進むべきかなと思いました。木田(優夫)さんが石川(ミリオンスターズ)でやられていて、翌年からファイターズに戻るのが決まっていた。木田さんから連絡があって、石川でピッチングコーチ兼任でどうかという話を頂いたんです」
68年生まれの木田は、読売ジャイアンツ、オリックス・ブルーウェーブなどの他、アメリカのメジャーリーグにも所属した投手である。
「木田さんは尊敬できる先輩で、アメリカでも同時期にいたことがありました。ファイターズでも2年間一緒で、食事にも連れていってもらったことがありました。そういった方から誘っていただくというのは、すごくありがたかった。自分が断る理由はありません。しばらくしてからやりますという返事をしました」