古木克明、ドラフト1位の肖像#1――大砲として類い稀な才能、一気に評価を上げた甲子園
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。
2017/09/19
小学校時代にすでに大器の片りん
野球の裏側には理不尽さがぺったりと貼りついている。
打者がバットの芯にボールを当てて飛ばしたとしても、その先に野手が待ち構えていることがある。一方、当たりそこねの、緩い球が野手の間に落ちて安打となる、なんてこともある。そのため熟練の打者になるとわざと芯を外し、野手のいない場所に球を落とすこともあるという。
そうした野手の配置に頓着しない種類の打者も存在する。それは外野手の頭を軽々と越えていくホームランバッターである。彼らのバットから放たれたボールは、優雅な放物線を描いて、ゆっくりとスタンドに消えていく。こうしたホームランを量産できるのは、プロの中でもごく一握りの男たちに過ぎない。そして彼らは球を遠くに飛ばすことに強い美学とこだわりを持っていることが多い。
古木克明はその一人だった。
1980年11月10日、三重県松阪市で古木は生まれている。二人きょうだいで、妹が一人いる。
「子どもの頃から躯は人一倍でかかったです。小学校の入学式のとき141センチあったはずです。もう頭一つ、いや二つぐらい飛び抜けている感じで。太っちょでいじめられっ子。泣き虫でしたね」
野球を始めたのは父親の影響だった。
「田舎だったので、庭や広場で親父とキャッチボールをしてました。最初は楽しいんですけれど、ぼくは10球ぐらい投げたら満足してしまう。でも親父はやめさせてくれないから、楽しくなくなってしまう」
父親は古木をまず「ジュニアホークス松阪」というボーイズリーグに入団させた。ただこのチームの主体は中学生で、小学生の選手は少なかった。そこで1年ほど経った後、リトルリーグの「松阪リトルリーグ」に移ることになった。
この頃から古木は潜在能力の高さを示し始めていた。
「自分で言うのもなんですけれど、小学4年生の中でぼくは桁が外れていたんですよ。(投げる)球も速いし、打球もガンガン飛ばすし。4年生たちの中でやらせていると危ないからって、小学6年生のAチームに入れられました」
古木の長距離打者としての基礎を作ったのは父親だった。父親は古木が小学校に上がる時期に建築士として独立していた。時間の自由が利くこともあったろう、自宅にバッティングゲージを設置、毎日夕食後の7時から2時間程度の練習に付き合った。
「親父はすごく勉強家で、ティーバッティングをして、常に打球が45度の角度に上がるように意識させたんです。建築士だったので、そういうのが得意だったんです。45度を測って、そこに印をつけてボールを当てる」
ボールを遠くに飛ばすためには、厳密にはバットの芯ではなく、少し上に当てる必要がある。古木の父親はその当てる場所を息子に意識させたのだ。
やがて強打者、古木の名前は近県で知られるようになった。
「小学4年、5年、6年でホームラン66本。もちろん練習試合を含めてです。万博記念公園内の球場に少年グラウンドがあるんです。西日本大会という大会で、そこのセンターのバックスクリーンを越えたことがありました」
すごく飛ばす選手がいると話題になったみたいですと古木は他人事のように笑った。