古木克明、ドラフト1位の肖像#1――大砲として類い稀な才能、一気に評価を上げた甲子園
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。
2017/09/19
隠し球に象徴される古木らしさ
豊田大谷は続く2回戦で山梨県代表の甲府工業と対戦している。
1回表、甲府工業が2点を先制。その裏、三番に座っていた古木が二死から二塁打を打っている。試合の流れを考えれば、豊田大谷はここで1点返したい場面だった。
四番打者がバッターボックスに入ったのを見て古木は二塁ベースから離れた。すると甲府工業の二塁手がすっと近づき、グラブで古木の躯に触れた。その瞬間、塁審が「アウト」と叫んで手を挙げた。隠し球である。
試合後、古木は「小さいころからボールから目を離すなと言われていた。相手がうまいとはいえ、自分は実行できなかった」と報道陣に後悔の言葉を語っている。
豊田大谷は1回の拙攻もあり、試合の流れを最後まで掴むことができず2対4で敗れた。
長距離打者としての類い稀な才能と、どこかすっぽりと欠けた部分。その後の古木を象徴するかのような試合だった。
古木克明、ドラフト1位の肖像#2――ベイスターズは希望球団にあらず。「来るな、来るな」
古木克明(ふるき・かつあき)
1980年11月10日、三重県出身。豊田大谷高校2、3年時に夏の甲子園に出場(3年時はベスト4)。左の強打者としてドラフト候補にリストアップされ、1998年度ドラフト会議にて横浜ベイスターズから1位指名を受けて入団。03年には、自己最多の22本塁打をマークした。08年にオリックス・バファローズへ移籍し、09年シーズン終了後に現役引退。引退後は格闘家に転身し、注目を集めた。その後、再度球界復帰を目指して13年に米独立リーグのハワイ・スターズに入団(1年のみプレー後に引退)。2014年1月にプロアスリートとしては初となる復興支援活動を伴う一般社団法人スポーツFプロジェクト(SFP)を設立。事業の傍ら、2014年4月から事業構想大学院大学の大学院生としてアスリートのセカンドキャリアの研究し、MPD(事業構想修士)を取得するなど活動の幅を広げている。
【書籍紹介】
『ドライチ』 田崎健太著
四六判(P272)1700円 2017年10月5日発売
甲子園フィーバー、メディア過熱報道、即戦力としての重圧……
僕はなぜプロで”通用しなかった”のか
僕はなぜプロで”通用した”のか
ドラ1戦士が明かす、プロ野球人生『選択の明暗』
<収録選手>
CASE1 辻内崇伸(05年高校生ドラフト1巡目 読売ジャイアンツ)
CASE2 多田野数人(07年大学生・社会人ドラフト1位 北海道日本ハムファイターズ)
CASE3 的場寛一(99年ドラフト1位 阪神タイガース)
CASE4 古木克明(98年ドラフト1位 横浜ベイスターズ)
CASE5 大越基(92年ドラフト1位 福岡ダイエーホークス)
CASE6 元木大介(90年ドラフト1位 読売ジャイアンツ)
CASE7 前田幸長(88年ドラフト1位 ロッテオリオンズ)
CASE8 荒木大輔(82年ドラフト1位 ヤクルトスワローズ)
ドラ1の宿命、自分の扱いは『異常だった』(辻内崇伸)
笑顔なき記者会見「なんでロッテなんだ、西武は何をやっているんだ」(前田幸長)
好きな球団で野球をやることが両親への恩返し。その思いを貫きたかった(元木大介)
困惑のドラ1指名。「プロ野球選手だったという感覚は全くない」(大越基)
ぼくは出過ぎた杭になれなかった。実力がなかった(的場寛一)
自分が1位指名されたときは涙なんか出ませんでしたよ(多田野数人)
頑張れって球場とかで言われますよね。これが皮肉に聞こえてくるんです(古木克明)
指名された時、プロへ行く気はなかった。0パーセントです(荒木大輔)
『ドライチ ドラフト1位の肖像』、Amazonなどで発売中です↓