古木克明、ドラフト1位の肖像#2――ベイスターズは希望球団にあらず。「来るな、来るな」
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。
2017/09/20
ベイスターズの選手の大半を知らなかった
その日の夕方五時半、横浜の監督である権藤博が豊田大谷を訪れている。
「その日のうちに速攻来てくださった。どこにあるのかと思った、遠かったよと。バッターでは鈴木尚典、守備では石井琢郎を目指してうちに来てくれと言われて。でもぼく、鈴木尚典、石井琢郎って言われても、知らなかった。誰って感じでした」
この年、ベイスターズは38年ぶりにセントラル・リーグ優勝、その勢いで日本一となっていた。その中で鈴木尚典は2年連続の首位打者、石井は最多安打と盗塁王になっている。
「ぼく、優勝したの観ていなかったんですよ。横浜で知っていたのは、佐々木(主浩)さん、ローズ、駒田(徳広)さん。あとは昔にテレビで観ていた斎藤明夫さんぐらい」
ベイスターズは意中の球団ではなかったが、プロ野球選手になれることは嬉しかったという。
「ダイエーに行きたいと言っていましたけど、ぶっちゃけ、どこでも良かった。プロは憧れ、夢でしたから。横浜に指名して欲しくなと思いながらも、指名されたときはとりあえず良かったと。ただ、1位指名については何とも思っていなかった」
ベイスターズは古木に背番号3を提示している。それはマシンガン打線を引き継ぐ、若手スラッガーとしての期待の表れだった。
古木克明(ふるき・かつあき)
1980年11月10日、三重県出身。豊田大谷高校2、3年時に夏の甲子園に出場(3年時はベスト4)。左の強打者としてドラフト候補にリストアップされ、1998年度ドラフト会議にて横浜ベイスターズから1位指名を受けて入団。03年には、自己最多の22本塁打をマークした。08年にオリックス・バファローズへ移籍し、09年シーズン終了後に現役引退。引退後は格闘家に転身し、注目を集めた。その後、再度球界復帰を目指して13年に米独立リーグのハワイ・スターズに入団(1年のみプレー後に引退)。2014年1月にプロアスリートとしては初となる復興支援活動を伴う一般社団法人スポーツFプロジェクト(SFP)を設立。事業の傍ら、2014年4月から事業構想大学院大学の大学院生としてアスリートのセカンドキャリアの研究し、MPD(事業構想修士)を取得するなど活動の幅を広げている。
古木克明、ドラフト1位の肖像#3――守備の不安消えず。三塁か外野か、一貫しなかった方針
【書籍紹介】
『ドライチ』 田崎健太著
四六判(P272)1700円 2017年10月5日発売
甲子園フィーバー、メディア過熱報道、即戦力としての重圧……
僕はなぜプロで”通用しなかった”のか
僕はなぜプロで”通用した”のか
ドラ1戦士が明かす、プロ野球人生『選択の明暗』
<収録選手>
CASE1 辻内崇伸(05年高校生ドラフト1巡目 読売ジャイアンツ)
CASE2 多田野数人(07年大学生・社会人ドラフト1位 北海道日本ハムファイターズ)
CASE3 的場寛一(99年ドラフト1位 阪神タイガース)
CASE4 古木克明(98年ドラフト1位 横浜ベイスターズ)
CASE5 大越基(92年ドラフト1位 福岡ダイエーホークス)
CASE6 元木大介(90年ドラフト1位 読売ジャイアンツ)
CASE7 前田幸長(88年ドラフト1位 ロッテオリオンズ)
CASE8 荒木大輔(82年ドラフト1位 ヤクルトスワローズ)
ドラ1の宿命、自分の扱いは『異常だった』(辻内崇伸)
笑顔なき記者会見「なんでロッテなんだ、西武は何をやっているんだ」(前田幸長)
好きな球団で野球をやることが両親への恩返し。その思いを貫きたかった(元木大介)
困惑のドラ1指名。「プロ野球選手だったという感覚は全くない」(大越基)
ぼくは出過ぎた杭になれなかった。実力がなかった(的場寛一)
自分が1位指名されたときは涙なんか出ませんでしたよ(多田野数人)
頑張れって球場とかで言われますよね。これが皮肉に聞こえてくるんです(古木克明)
指名された時、プロへ行く気はなかった。0パーセントです(荒木大輔)
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