古木克明、ドラフト1位の肖像#3――守備の不安消えず。三塁か外野か、一貫しなかった方針
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。
2017/09/21
強化方針が一貫しなかった当時のベイスターズ
権藤の方針は理解できる。
98年の優勝メンバーを見ると、外野はレフトの鈴木尚典、センターの波留敏夫、ライトの佐伯貴弘、あるいは中根仁と二十代の選手が揃っていた。内野に目を向けると、サードの進藤達哉は守備が得意な選手で複数のポジションをこなすことができた。進藤と併用しながら古木をチームの柱に三塁手として育てる――。
しかし、下位に慣れ親しんだ球団というのは監督が頻繁に交替し、強化方針が一貫しない。
2000年、権藤は解任され、翌2001年シーズンから森祇晶が監督に就任した。
2001年シーズン、古木は一軍に4試合に出場、五度打席に立っている。このシーズンの終了後、古木は契約更改で背番号を3から33に代えると通告された。千葉ロッテマリーンズを自由契約になった石井浩郎を監督の森の意向で獲得していた。三番は石井に与えられることになった。
「やっぱ、悔しかったですよ。くそって思ったし。さらに頭に来たのは、ぼくに番号を選ぶ選択肢がなかったこと。3繋がりで勝手に33にさせられた。それまで33番をつけていた人は悔しがっているし。ぼくが好んでつけたんじゃない。ぼくは全然でっかい番号でも構わなかったのになと思っていた」
古木にとってプロ4年目の2002年は一軍で34試合に出場。一軍への昇格は突然だったという。
「二年目途中に外野手に転向してからはずっと二軍で外野を守っていたのに、一軍に上がるという話になって、1週間ぐらい前から内野の練習を始めたんです。はい?って感じですよ。それで(一軍に昇格すると)いきなりサードを守らされた」
このシーズンは打席は106と少ないものの、打率.320という好成績を残している。翌2003年シーズンは一軍に定着したが、本塁打22本はともかく、打率.208、三振131個は底辺の成績だった。
「一番大きかったのは守備への不安。そしてバッティングがまた分からなくなっていた。進化を求めて、色んなことを試してバッティングを崩してしまった。シーズン途中から代打ばっかりになってしまった。そりゃ代打ばっかりならば三振もするよっていう考えになった。色んなことが複雑に絡み合って、悪い方へ、悪い方へと行ってしまった。もう最悪でしたね」
結局、古木はプロ野球選手として花が咲くことはなかった。