元木大介、ドラフト1位の肖像#2――巨人逆指名批判、ホークス入団拒否の理由
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。
2017/10/11
ホークス入団拒否の影響
記者会見から約2ヶ月後の11月26日、プロ野球新人選手選択会議が赤坂プリンスホテルで開かれた。
この日、上宮には記者会見場が急遽設けられた。部屋には報道陣が土足で上がれるように青色のグラウンドシートが敷かれて、パイプ椅子が並べられていた。16時のドラフト会議開始に合わせて、学生服を着た元木は部屋に入った。彼の前には長机が置かれ、無数のマイクが乗っていた。軽く3、40人を越える報道陣が集まっていただろう。長机の横にテレビモニターが設置されており、ドラフト会議の模様が中継されていた。
この年のドラフトでは新日鐵堺の右腕投手、野茂英雄を何球団が指名するのか、が注目されていた。ジャイアンツは野茂の指名には加わらず、元木、もしくは慶應大学の大森剛を選ぶと予想されていた。大森は「1位以外ならば行かない」と発言していた。ジャイアンツは元木、大森のどちらを取るか、だった。
ジャイアンツの選択指名選手の発表は12球団の最後だった。
――第1回選択希望選手、読売、大森剛、22歳、内野手、慶應大学。
パシフィック・リーグ広報部長の伊東一雄の声が響いた。
その瞬間、元木は下を向き、口を少し尖らせた。その瞬間、一斉にシャッター音が鳴った。そして元木は所在ない表情でうつむいた。
「残念っていうんですか……はい」
誰に向かって言ったでもない言葉だった。
報道陣から質問が飛んだ。
――夕べ、寝るときから(ジャイアンツから1位指名されることを)信じてましたか?
「信じてました」
頷いて、そういうのが精一杯だった。元木は必死で涙をこらえていたのだ。
その後、8球団が競合した野茂英雄の指名を外したホークスが元木を指名した。
当時をこう振り返る。
「大森って名前が呼ばれた瞬間に、あっ、大森さんだって。ふーんって考えた後、あれ、俺、ジャイアンツ入れないわ、あれ(1位指名しますという約束)はなんだったんだろうと思って。そっから後はもう何がなんだか、さっぱり分かんないですよ」
ドラフト会議が終わった後、元木は報道陣から離れて監督室で泣いた。監督の山上からドラフト会議前、監督のところにジャイアンツから「1位は大森で行きます」という連絡が入っていたと聞かされた。逆指名と批判されたことも思い出し、しばらく涙が止まらなかった。
ホークスは縁がない球団ではない。元木が初めて所属したボーイズリーグは、福岡ダイエーホークスの前身、南海ホークスの関連チームだった
また、元木家との交渉をしたホークスのスカウトも南海ホークス出身で、父親と顔見知りだった。
「どこで知り合ったのか全然分からないんだけれど、親父も結構、南海の人を知っていた」
ドラフト直後、父親は元木にこう訊ねたという。
「ダイエーでもいいんじゃねえか? 折角誘ってくれているんだから」
しかし、元木は首を振った。
「いや、俺、もう自分で決めたことだから、申し訳ないけど断る。チャンスがあるんだったら俺、ジャイアンツでやりたい」
そこから父親は一切、ホークスに行けと言わなくなった。
元木は父親と一緒にホークスのスカウトと会っている。そのとき父親はこう釘を刺した。
「金の話をするのならば、すぐに出ていってください」
元木はその毅然とした態度が誇らしかった。
「俺の目の前ではっきり言った。自分の息子が(入団の条件として)金(の多寡)で動くとか、断るとかそういう風に思われるのが可哀想だって。そのとき、すげぇ親父だなと思った。味方がいてくれるというのが嬉しかった。だから交渉の席で金の話は一切出たことがない」
ホークスの指名を拒否したことで、元木を取り巻く景色は寒々としたものになった。
「家の前にずっと記者が張っていて、いつも、各社2、30人いた。本当に、俺、人殺しかなんか悪いことしたのかな、と思うぐらいだった。洗濯物干していたら写真撮られるし、お袋は家から一歩も出られない。買い物も行けない。だからお袋はノイローゼで倒れた」
元木大介、ドラフト1位の肖像#3――一軍に生き残るためのスタイル変換「好き勝手書いた人たちを見返してやろうと」
元木大介(もとき・だいすけ)
1971年12月30日、大阪府出身。中学時代からすでに注目を集め、上宮高では春2回、夏1回甲子園に出場。89年の夏の甲子園では1試合2本塁打を放つなど、一躍人気者として、旋風を巻き起こす。高校通算24本塁打。同年のドラフト会議では読売ジャイアンツの指名を希望するも願いかなわず、福岡ダイエーホークスから野茂英雄の外れ1位で指名された。結局これを断り、1年間ハワイに野球留学する。1990年のドラフト会議でジャイアンツより1位指名を受けて入団。2年目から1軍で出場。高校時代はスラッガーとして名をはせたが、プロではつなぎ役、内外野守れるユーティリティープレイヤーとして存在感を発揮、勝負強い打撃には定評があった。現役生活では度重なる故障に悩まされ、05年オフに引退。その後はプロ野球解説者や評論家、タレントとして活躍している。
【書籍紹介】
『ドライチ』 田崎健太著
四六判(P272)1700円 2017年10月5日発売
甲子園フィーバー、メディア過熱報道、即戦力としての重圧……
僕はなぜプロで”通用しなかった”のか
僕はなぜプロで”通用した”のか
ドラ1戦士が明かす、プロ野球人生『選択の明暗』
<収録選手>
CASE1 辻内崇伸(05年高校生ドラフト1巡目 読売ジャイアンツ)
CASE2 多田野数人(07年大学生・社会人ドラフト1位 北海道日本ハムファイターズ)
CASE3 的場寛一(99年ドラフト1位 阪神タイガース)
CASE4 古木克明(98年ドラフト1位 横浜ベイスターズ)
CASE5 大越基(92年ドラフト1位 福岡ダイエーホークス)
CASE6 元木大介(90年ドラフト1位 読売ジャイアンツ)
CASE7 前田幸長(88年ドラフト1位 ロッテオリオンズ)
CASE8 荒木大輔(82年ドラフト1位 ヤクルトスワローズ)
ドラ1の宿命、自分の扱いは『異常だった』(辻内崇伸)
笑顔なき記者会見「なんでロッテなんだ、西武は何をやっているんだ」(前田幸長)
好きな球団で野球をやることが両親への恩返し。その思いを貫きたかった(元木大介)
困惑のドラ1指名。「プロ野球選手だったという感覚は全くない」(大越基)
ぼくは出過ぎた杭になれなかった。実力がなかった(的場寛一)
自分が1位指名されたときは涙なんか出ませんでしたよ(多田野数人)
頑張れって球場とかで言われますよね。これが皮肉に聞こえてくるんです(古木克明)
指名された時、プロへ行く気はなかった。0パーセントです(荒木大輔)
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